エッセイ:作品印象について
わたしは、何か「作品」を観たり、聞いたり、読んだりしたとき、「何か」が立ち現れます。
その「何か」とは、なんでしょうか。なんと呼べばよいでしょうか。
とりいそぎ、「作品印象」とでも呼んでみましょう。
では、「作品印象」とは何か。
たぶん、「作品印象」とは、作品の「意味」に関連していると思います。
作品の「意味」は、どのように形作られるでしょうか。
二つのパターンを考えてみます。
第一に、テクスト論的な態度で「意味」は形作られる。
テクスト論的な態度とは何か。
作品には、「作り手」と「受け取り手」がいて、その間に「テクスト」があります。
そこで「意味」を形作るのは「作り手」ではなく、「受け取り手」であり、「作り手」にどんな意図があろうと、「受け取り手」は勝手に意味を形作ってしまうし、ましてや、「作り手」の意図なんて知ったこっちゃない、というような態度。
つまり、テクストの意味の構成主体が「受け取り手」にある態度です。
次に、その逆を考えてみましょう。
逆ですから、テクストの意味の構成主体が「作り手」にある態度です。
言い換えると、作品=テクストの意味は、作り手の意図との連関で捉えなければならないという作家論的な態度です。
たとえば、太宰治の『人間失格』は、作家である太宰の人生や、太宰の意図との連関から捉えるべきだ、という態度ですね。
さて、受け取り手が意味の主体であるテクスト論的な態度と、その逆として、作り手が意味の主体である作家論的な態度の、二つの態度を見てきました。
この二つは、どちらかが正しく、どちらかが間違っているのでしょうか?
例えば小説で「お前は馬鹿だ」というセリフがあったっとしましょう。
受け取り手は、それを、「励ましと称賛の意」で受け取り、
作り手は、それを、「非難の意」で作ったとします。
この場合、どちらが、作品の「意味」なのでしょうか。
わたしは、どちらも、意味として成り立ちうる、ように思えます。
「作品印象=意味」は、作り手の意味と、受け取り手の意味が絡まり合う場所、という考え方。
さて、ここにもう一つ観点を付け加えてみたいともいます。
作り手と、受け取り手のどちらでもない観点。
それは、他者です。
作家ーテクストー読者(わたし)の関係性の外側にいる他者。
他者とは、メディア、批評家、他の鑑賞者などがあげられるでしょう。
まず他の鑑賞者から考えましょう。
他の鑑賞者とは、大衆、ファンダムなどです。
彼らは大勢いるから、声が大きい。
ひとが集まるためには一朝一夕ではいかない。それなりの歳月が必要です。
それゆえに、その声は力強く、その声によって叫ばれる作品の「意味」は、なかなか簡単に批判できない。
批評家は、他の鑑賞者とは違い、大勢ではなく、ひとりでいるので、声は小さい。
けれども、批評家は、鋭い論理性によって、非の打ちどころのない「意味」を構成していく。
メディアは、そのときそのときの流行をつかみ、ひとに聞こえのいい声を取り出して、ループさせる。
どこでも同じ広告を目にする。どこでも同じ曲が流れる。
テレビを見れば、流行りの映画が紹介され、雑誌を読めば、流行りの本が紹介される。
いま時流に乗っている作品を紹介している。
他者の声には、メディア・批評家・他の鑑賞者がいる。
おそらく、作品印象とは、これらのパワーバランスで成り立っている。
どこまでが作り手の意図か。
どこまでがテクストか。
どこまでが受け取り手の感想か。
どこまでが他者(メディア、批評家、他の鑑賞者)か。
これらを腑分けしながら、「作品印象」を深めていくのが楽しいのだと、わたしは思います。
おわり
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