デレラの読書録:金原ひとみ『アッシュベイビー』
主人公アヤの身体と精神は乖離してしまっている。
性行為の表現はあまりに即物的で、身体は精神を置きざりにしてしまっている。
いわゆる、精神と肉体の対立図式がまずある。
さらに言えば、この物語のなかで語られる一人称視点は、精神すらからも乖離しているのではないか。
身体と精神をさらに一段上から語る一人称視点。
ようは、身体と精神の二項対立ではなく、身体と精神と一人称の三竦み。
より図式的に言い換えれば、「身体アヤ」と「精神アヤ」と「一人称アヤ」の三竦みである。
主人公アヤは、身体と精神と一人称に分裂してしまったのだ。
この「一人称アヤ」とは何だろうか。
この小説は、セリフよりも、モノローグの方が多い。
セリフとモノローグが対立している。
この対立図式に、わたしは精神アヤ=セリフ、一人称アヤ=モノローグという関係を読み込んだ。
精神アヤのセリフは全てぶっきらぼうで、多くを語らない。
一方で、一人称アヤのモノローグは、自分の精神自体を冷笑しながら、多くを語る。
一般的には、モノローグ=主人公だけれど、この小説では、それが分裂している。
モノローグは一人称アヤであり、主人公である精神アヤを忌避し、排除し、忌み嫌っている。
一人称アヤは、自分の気持ち(精神アヤ)も、他人の精神も理解できない。
即物的に身体を交えて、一人称アヤは愛と死の区別がつかなくなる。
一人称アヤにとっては愛してほしいと、殺してほしいは等価だ。
身体アヤと精神アヤと一人称アヤの摩擦熱で焼けこげてしまい、残ったのは灰(アッシュ)だけ。
自分の精神から遊離した一人称アヤ視点が、自分自身(精神アヤ)を冷笑しながらも、自分が灰(アッシュ)であることを認めたとき、身体アヤの性器が涙で濡れる。
そして一人称アヤはようやく生まれ直すのだ、灰の子ども、つまりアッシュベイビーとして。
アッシュベイビーとは、精神を置き去りにしてしまったモノローグ=一人称が初めて身体を獲得して生まれ変わった子どもなのではないか。
精神と身体の対立から、一人称が精神を追い払い、一人称と身体の関係を獲得する、ということ。
生まれながらにして、すでに灰の子どもとなったアヤは、恍惚とともにあるだろう。
では、最後に翻って、一人称によって排除されてしまった「精神」とは何だったのだろうか。
一人称を抑圧しきれず、自らの位置を一人称にあけ渡してしまったあの精神とは、何だろうか。
おそらくそれは、他者との関係で構築された「わたし」であったはずだ。
それを排除することは、救いになるのだろうか、あるいは。
おわり
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