見出し画像

我、ポンコツなり

今朝、今まで見たことのないタイプの夢を見て、ボロボロに泣きながら目を覚ました。こんな夢だ。

オットがベッドの上で並んで寝転がって、いつもみたいに私のことをよしよしと大事そうに撫でている。とても安心で心地がいい。けれど、なんだか周囲の状況がおかしい。ここは我が家の寝室のはずなのに、見えるのは見たことのない部屋の様子で、本棚や机が周囲に置いてある。

そして、私の本がない。以前大学院に通ったときのテキストなんかもない。オットの本しかなくてガラガラの本棚からは、私の本が1冊残らず消えている。もともと存在なんかしなかったみたいに。私の仕事用のパソコンもない。

そこで私は、本当は自分が知的障害者で、自分が本なんか読めない人間なのだ、だからここには私の本もパソコンもないのだ(という設定)に気づく。

私が動揺と絶望でぜいぜいして泣きそうになっていると、オットが「どうした? シールが欲しい? シールが欲しい?」と、顔を心配そうに覗き込んですごく優しく聞く(小さな子がむずかったときに与えてなだめるような、アンパンマンとかのシールをくれようとしているらしい)。

ああ、オットは私がこんなんでもこうして愛してくれて心底心配してくれてすごく嬉しい、でも私は全て失ったし本当は最初から持ってもいなかったんだ、と思って、私は言葉を発することもできず、オットにしがみついて泣く。そこで目が覚めた。

自分の身体を圧倒するような感情の渦に動揺し、なかなか止まらない涙に難儀しながら、「私にとっての『牛』は、知性とか教養とか、『インテリ層として振る舞うこと』だったのかもしれない」と思い当たった。

「牛」とは、その人が強く執着しているもの。本人はそれを「人生上の欠かせないもので、幸せのためにそれを死守しなければならない」と思っているが、執着が強すぎて、かえって生きる上での苦しみの核となっているかもしれないものだ。このマインドフルネスの本で出会った比喩。「自分の『牛』を見つけて、それを手放しなさい」という文脈で出てくる。

先日のカウンセリングでは、「最近なんだか治療がスイスイいかなかくなって、モヤモヤするようになりましたよね」という話の中で、この「牛」の話をしたところだった。「大きなトラウマをひととおり乗り越えてきたこういう地点で一度行き詰まる人はけっこう多いです。ゆっくりやっていきましょう。だいたいの場合、無理せず過ごしてればふとしたときにヒントが降りてきます」と言われたそのとおりになったので、ちょっと驚いた。

ずっと、自分の「頭がいい」ところにすがって生きてきた。それ以外にとりえなんてなかったからだ。小学生のころからいじめられ虐待されつづけて、「見てろ、バカなお前らなんかと違って私ははるか高いところに行ってやるんだから」という歪んだ自己愛と復讐心で心に鎧を着せることでやっと生き延びてきたのだ。

けれど、本当は気づいていた。自分が本当は「IQが高く、経済的に恵まれているだけのポンコツ」であることに。

私は試験なんてものが嫌いだし、そもそも苦手だ。一定時間居心地の悪いところに拘束されて、基本的にアナログな方法で、覚え込んだ内容をいかに時間内にどれだけ正確に書きつけていけるかで判断されるなどということは、ごめんこうむりたい。体力的にも、知能検査で明らかになった自分の能力のバランスからいっても、私は試験が極端に不得意と言っていい。

それでもそこそこの大学に入れて卒業までできたことは、私の高IQと、過労で倒れるほどの努力と、実家の高い経済力の掛け合わせの結果でしかない。私の学歴は、私がインテリとしての総合的なスキルセットや人間力を持っていることの証明ではない。

私は勉強というか、自分の興味のある分野について知識を身につけることは大好きだ。ただ、学校に通うこと、学校に通うことに伴って、ある時点の自分の能力を皆と一律の方法によって値踏みされるもろもろ全てのことが大嫌いだ。大嫌いだし、根本的に苦手だ。

高等教育機関ともなると、学友を作り、指導教官と関係性を構築し、学費や資料代のコストを計算し、年単位のスケジュールを練り、専門書を難解な翻訳書や原書で読まねばならない。そんなこと私には正直言って無理だった。うすうす気づいてはいたが、数年前に大学院で聴講したことで改めて痛感した。

私は、ただ自分が救われればそれでよかった。

自分が傷つけられた理由。そこに理由を見いださねば生きられない理由。どのような条件がどれだけ違えば、私は傷つけられずに済んだのか、私はどのようなことを乗り越えれば魂の底から救われるのか。それを知りたいだけだった。

ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務、恵まれた者は社会にその恵まれた分を返さねばならないという義務)を自分に課してきたし、その一環として本も出したわけだけど、本当は他人のことも、学問のこともどうでもよくて、自分が救われたいだけだった。社会への奉仕は、私自身のニーズでやっていただけだった。ノブレス・オブリージュなんて、父が小さい頃から私にそう言って聞かせたからASD特有の素直さもあいまって鵜呑みにしてきただけで、本当は単なる理不尽なプレッシャーだと思っている。

せっかくメンタルヘルスの周辺のことを勉強し発信もしてきたのだから、それ系の体系的な専門知識や専門資格を… とも思っていたけど、結局は腰が重くて上がらないのは、それが本当は自分にはほとんど無理なことだとどこかで自覚していたからかもしれない。それでもせっかくだから頑張って… と思っていたのには、「『あいつら』をぎゃふんと言わせられるような立場に立ちたい」という復讐心や「父に承認してもらえるような『立派な人』になりたい」「母みたいな自分と向き合うことから逃げる人になりたくない」という気持ちがあると思う。これらに加え、サンクコスト効果もあるかもしれない。サンクコスト効果とは、「すでに支払ってしまった時間や金銭やエネルギーといった労力を取り返そうとする心理的しくみ」のこと。ギャンブラーに、負けが込んでいるギャンブルを続けさせてしまう心理効果として有名だ。

私は、この「牛」を手放さなければならないのだろうな。

今、そうなんとなく覚悟したところで、このところ激しかった身体の緊張がフッと抜けてくるのを感じるので、たぶんこの推測は合っているんだろう。

我、ポンコツなり、そして神はそんなポンコツをも愛し給う。オットも友人も、こんなポンコツを愛し給う。どうか神さま、みなさま、これからも私を愛し給え。アーメン。

いただいたサポートは、書籍購入費、交通費、病院代などに大切に使わせていただきます。ありがとうございます!