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「ためこみ」「ゴミ屋敷」も強迫症? 私の母の強迫症について #強迫症啓発週間

10月11~17日が強迫症啓発週間。私は長年、母の特異な言動に悩まされてきて、今もトラウマ治療中なのだが、最近になって母が重度の強迫症だったらしいことがわかった。私の母のケースについて少しまとめておきたい。

母の強迫症が判明するまで

私の母には長年おかしいところがあった。彼女の特異な言動にはだんだん誰も手がつけられなくなり、父と兄は家を逃げ出してしまう。逃げそこねた私はその後一人で彼女の世話を背負っていたが、東日本大震災で母の症状が劇的に悪化。私は追い詰められて実家から逃げ出し、現在の夫のところに身を寄せた。母本人は数年前、妄想性障害の診断を受けて施設に入った。

母にはもともと、衛生的なことについて過剰に気にしたりだとか、自分の心身の安全のことについて不安になると突飛な言動に出ることがあった。あと、安心とかこだわりのためにものをため込む傾向。

彼女について、私は「強迫的なところがある」とは思っていたが、私は当時、強迫症についてほとんど知識を持っていなかった。彼女には、洗浄強迫(繰り返し手を洗う)も確認強迫(鍵を締めたかなどを繰り返し確認する)もなかったし、のちに妄想らしきものも起こした。そんなふうに彼女は私の思っていた強迫症のイメージからは外れた人だったから、まさか母が重度の強迫症だなどとは思わなかった。

私は実家から逃げ出してから一度だけ、病院にいる母と会ったことがある。そのときには彼女は繰り返し手をアルコール綿で消毒しており、枕の位置が数ミリ違うから直せみたいなことで激怒して、父に対して地団駄を踏んで怒っていた。それで、「彼女は妄想性障害と強迫症を併発しているんだな」と思うようになっていた。

なんだ、母は重度の強迫症だったのだ。私も強迫症だったのだ

今年に入って、私はトラウマ治療の仕上げとしてあるカウンセラーにかかった。ときどき面談するようになってから、彼のもうひとつの専門が強迫症だと知った。

それでちょこちょこと母の話や自分の「完璧主義」の話をするうち、何か引っかかるものがあって彼のサイトを見るようになって、気づいてしまった。母は初めから強迫症だったし、私も強迫症だった。

彼のサイトを見ていて私が把握したことのポイントは以下だ。

・強迫症は洗浄強迫と確認強迫だけではない。想像型強迫と整理整頓強迫というのがある
→私はこのうち整理整頓強迫の傾向があった

・ためこみ症も実質的には強迫症である
→母が中年以降示していたメインの症状はためこみだった= 母も強迫症

・強迫症でも強迫観念が荒唐無稽なものに及ぶと妄想と区別がつかなくなることがある。本人が自分の言動のおかしさについての洞察を失う(病識の欠如と判断されて妄想性疾患の診断基準となる)ことがある
→母もこういう感じだった=やはり母が患っていたものの本質は強迫症

ほかには以下のようなツイートからの気づきもあった。

上のようなツイートからはっきりしたことは以下。

・病気不安症(心気症)はほぼ強迫症関連疾患
→母は心気症傾向がとても強かった。やはり母のコアには強迫症がある

・醜形恐怖症、対人恐怖症も強迫症関連疾患
→私が出かけるための着替えや化粧に3~4時間費やしていた(整理整頓強迫が整容の分野に出ていた)時期には、症状に醜形恐怖や対人恐怖の傾向も絡まっていた。「こんな顔では人の前に出れない」「こんな服装では人に不快感を与えるのではないか」「人との適切な目の合わせ方がわからない」という不安。これもやはり強迫傾向だった

母も自分も強迫症だったじゃん、と驚いて書いたnote記事がこれだ。

トラウマのある人の強迫症の場合、強迫症傾向の根底には、トラウマ関連の恥や罪悪感、再び被害を受けることへの恐怖が関わっていたりするそうだ。「不完全な自分が人に迷惑かけて生きていてもいいんだ」「生きている以上リスクはゼロにはできない、心配して備えることのコストと、それにより得られる実質的効果とを天秤にかけてコスパを考えてみよう」と思えるようになると強迫傾向も楽になるとのこと。結局は傷を癒していくことが大事みたいだ。

母の症状の変遷:40歳ぐらいまで(私は小学校低学年ごろまで)

・小さな頃からの頑固な不眠傾向、特に枕が変わると眠れない
・週末になって緊張が緩むとしょっちゅう偏頭痛を起こして寝込む
・胃腸虚弱ですぐ胃の調子を悪くする。味覚が敏感で偏食がひどい
・五感が過敏ですぐ疲れてしまうので旅行に行きたがらない
・手先が不器用でボタンつけもできない
・衛生的なことについてちょっと過敏、かつどこか的外れ(たとえば肉は芯まで火を通さなければと言って焦げるまで焼いたり、蒸し焼きのときの水蒸気が高温であることが腹落ちしていなかったりした)
・店で買い物するともらえる紙袋をやたら取っておく、整理整頓や定期的な掃除ができない(というか、自分で室内環境をメンテナンスするという発想自体がない?)
・ブランドものの食器が好きでやたら買い集めるが、食器棚に詰め込むだけで使わない
・手芸が趣味な母親(私の祖母)からもらうままにいろいろなクラフト作品などを家に漫然と飾っていく
・休みの日で元気なときは大量に撮り溜めした日曜洋画劇場の映画を1日3本とか見て過ごす。散歩とか体操とか、身体を動かすことに興味がまったくない
・上品でおっとりとした、というか、どちらかというとのったりとした・ボーッとした印象の人。ゆっくり話してみると頭はいい、みたいな感じ。

彼女には発達障害の診断はない(本人も強硬に否定する)が、上記の要素を見るかぎり、下手をすると私(ASD)よりも重いぐらいのASDやADDがあったように思えて仕方がない。

おそらく彼女が30代後半のころ、私の両親は新しい家を建てたのだが、当時の写真を見ていると数年のうちに家の中にどんどんモノが増えていくさまがわかる。

私が当時いまのような頭があったら「これはおかしい」と気づいていたところだが、私はまだ子どもだったし、父はワーカホリックで家庭を放置ぎみだった。まだ祖父母世代や伯父が元気で、何か気づけばちょこっと掃除するなど、カバーする人員もいた。あと、単純に家がまだ新しくて、まだまだためこんでも違和感が出てこないだけの空間的余裕があった(苦笑)。このため、母のためこみや、整理整頓・掃除の能力の欠如の傾向は誰に見咎められることもなくじんわりと進んでいった。

母の症状の変遷:50歳ぐらいまで(私は高校生まで)

私が小学校6年のころ、母が40代半ばのとき、父方の祖父が死んだ。これで、同居の祖父母世代は父方の祖母だけとなった。この祖母がくせもので、おそらくサイコパスだと思うのだが、相手が血縁者だろうが子どもだろうが容赦なく悪意を向けて嫌がらせをしてくる人。すでにいい歳だったのに驚くほど頑丈で、ものすごいエネルギーを持ち合わせていた。母は嫁に来たとき以来、祖母からずいぶんと手慰みに嫌がらせをされてきた。あとでわかったことなのだが、祖父は彼女の悪意が皆に及ぶのを身体を張って止めてくれていたのだ。それで、祖父がいなくなってから、この家のメンバーの殺伐とした雰囲気は一挙に高まっていた。社会にはちょうどバブル崩壊後の混乱も高まっていたところで、ワーカホリックだった父は以前に増して家に寄りつかなくなった。

高校生ぐらいになって家の中のものごとがわかるようになるとともに、私は母に非常に同情的になった。「姑にはいじめられ、夫からは放置されてなんてかわいそうなのだ」というような。

母のためこんだ本や雑誌のたぐいはだんだんと家の居間を占領しつつあり、母は数年にわたって、父に「この本や雑誌を収納するために本棚を買ってくれ」と言い続けていた。あるとき私は母に加勢して、なぜ買ってやらないんだ、こんなに必要としているのに、可哀想だと思わないのか! と父を責め立て、大きな本棚を二つ買わせた。半間ほどの幅の、前後二段式の大容量の本棚を二つ。

その本棚は、なんとなく手つかずで大事にされていた和室に置かれた。母は満足げで私も一安心したが、本来人を呼んでお茶を飲んだりする和室にちゃぶ台の一つもなく、雨戸は閉められたままで暗く、だんだんガラクタが積み上げられていっている中でついにデンと大きな本棚が二つ入った様子を見て、何か胸がざわざわして不安になった。和室ってこういうものだったっけ……?

あとはなし崩し的にものが集められていって、収納しきれなくなるとそれを入れる棚を買う、というサイクルが続いて、家の中はだんだん「棚地獄」のようになっていった。集められるものは、紙袋、100均のプラスチックのカゴや小物、ノベルティでもらう食器類など。

私は中高は通学に片道2時間かかるような私立に通っていて、受験勉強も大変だったものだから、日々のノルマを終えたらもう、部屋の片づけをするだけの体力気力が残っていなかった。ただでさえいっぱいの部屋に、母が「これはお母さんがこうこうで大事に着た、とても上質で大事なものなのよ、もったいないから着なさい」などと言って30年前の古着をどんどん持ち込んでくる。まだ精神的に母に抱き込まれていた当時の私には、母の意向に逆らってまでそれらを処分するだけの勇気もなく、そもそもそれがどの程度問題で、自分がどの程度それに苦しんでいるのかもきちんと自覚できていなかった。

このせいで私の部屋は地獄の蓋を開けたかのように散らかっており、足の踏み場もなかった。いま思えばどう考えてもモノの量が収納の容量も私の処理できるキャパも大きく超えていたのだから仕方ないのだが、その部屋を見た父は「だらしない」と叱責し、「精神病者の部屋みたいだ」と嘲笑した。これには傷ついたが、私は小さな頃から周囲から言われてきたとおり、「確かに自分がだらしなくておかしいからこのようなことになるのかもしれない」と思って過ごしていた。

おそらく、この時点で誰かに周辺の知識があったり、きちんと支援へのつながりがあったりしたら、母の問題が家族も本人も壊すまでには至らなかったのだろう。けれど、私たちには知識もなければつながりもなかった。

母の症状の変遷:60歳ぐらいまで(私は20代後半まで)

いろいろなことがどんどん悪くなっていった。

私は厳しい大学受験を経て燃え尽きたのと、母におもねって入った文学部の授業に興味が持てなかったのと、規律の厳しい中高一貫の女子校を出て自由な大学生活に足を踏み入れたらどうしていいかわからなくなったのとで消耗して、だんだん昼夜逆転に近い生活になっていった。

思えばこの時期、私は整理整頓強迫の症状を起こしていた。整理整頓強迫は「身の回りのものごとが自分の思ったとおりに『きちんと』『完璧』でないと不安になってやり直してしまう」というもので、整容(身だしなみや化粧)の分野にも出るとのこと。私は出かける前の身支度で服や化粧に悩み、3~4時間もの時間を費やしていた。もともと昼夜逆転気味だったから出かける状態になったころには夕方ということも多く、結果的にひきこもりに近い状態になっていった。

実家の同居メンバーもどんどん減った。父も兄も単身赴任や海外在住などとなり、長く患ってずっと家にいた伯父も死んでしまった。サイコパス祖母は相変わらず悪魔のように元気だったが、あるとき突然認知症の症状が出た。病院に連れて行ったら硬膜下血腫を起こしていて、そのまま施設に入れられた。結果、実家には私と母の二人が残った。もうこのあたりになるとあまりに大変だったので記憶が曖昧だ。解離性健忘というらしい。

母の調子はぐっと悪くなっていた。ちょうど更年期で心身が不安定なところに、ずっと仲の良かった女性の同僚であり友達が母をさしおいて昇進したのが、けっこうショックだったらしい。おっとりとして上品だった母が驚くほど口汚くその同僚の悪口を言う様子に、私はショックを受けた。

母はだんだんもともとの不眠の傾向を強め、睡眠薬や精神安定剤、そして胃が痛いのだ胃酸が出るのだと言って胃薬を常用するようになった(いま思えば心気妄想の兆し)。以前は土日に寝込むだけで乗り切れていたのが、ときどき欠勤せざるをえなくなったし、なんとか仕事に行って帰るだけで精一杯で、彼女が唯一できていた家事としての、食材の買い物や食事の用意もできなくなっていった。彼女はそのうち休職し、何年か休んだあと結局早期退職した。

家のそこここにはモノが積まれ、誰も定期的に掃除や整理整頓をしないから(私もほとんど寝込むようになっていて掃除の気力が出なかった)そこらじゅうホコリだらけだった。生ゴミだけは私が頑張って捨てに行っていたからなんとか衛生的に極端に悪い状態にはならなかったが、すでに家の中は「ここは人の住める空間ではない」という感じになっていた。

私が母に対して明確に嫌悪感と疑問を覚え、彼女の意に反してでも状況をなんとかしようと奮闘しはじめたのが、私が大学に入って以降だった。

母が「いつか使うから」「こういうものをちゃんと取っておくのが、ちゃんとした女性のすることなのよ」と言って母があちこちにためている紙袋の一部はすでに数十年モノになりつつあった。家中のそうした紙袋を集めてみたら長持二つほどになり、呆れた私が「ほら、こんなにあったよ」と母の目の前に置いて見せたら「あらぁ」と他人事のように言っただけで、まったく悪びれなかった。私はすっかり脱力してしまった。

私は、モノに溢れた家の中を見ていると気が狂いそうになってくるので、せめて自室の中だけでもと、母の目を盗んでガラクタや服を捨てたり、お金になりそうなものは売りに行ったりした。ときどきそれを見咎めた母は、人が変わったように激怒した。出かけようとする私の前に立ちはだかり、自転車のカゴにしがみついて半時間粘る。こういうときの母は目が据わってしまっていて、般若みたいに見えた。

年単位の奮闘の結果、部屋の収納がガラガラになるほどモノを減らすことに成功したが、今度は必要のない家具を処分しようとしてハードルにぶつかった。無理にでも回収業者を呼んで持っていってもらえば済むのだが、母は完全にひきこもりになっていたので、彼女の出かけている間を縫って済ますということができない。それでもなんとか、同じ階にある母の部屋に一人で家具を押し込むぐらいのことは5分10分あればできるから、彼女の嫁入り道具だとして私の部屋に押し込まれていた大きな鏡台を彼女の部屋に押し戻すことに成功した。そうしたら案の定激怒された。もうこれを返してくるだけの体力は彼女にはないだろうとたかをくくっていたら、私が外出中にシャカリキになって頑張ったのか、鏡台が再び私の部屋に押し返してあって、私は彼女のモノに対する執念の強さにぞっとした。

彼女はこの時期に人としてのバランスを大きく崩していったように思う。「家の中がモノだらけで恥ずかしいからお客も呼べない」と言うから、よしきたと思って「なら業者を呼んで一挙にやってもらおうよ、私も手伝うから」というと必ず激しく抵抗することの繰り返し。ごくたまには人を呼んでいたのを呼ばなくなり、ときどき電話で連絡していた古い友達とも何かと仲違いしてしまって、彼女はどんどん孤独になっていった。その代わり、娘の私への依存を強めていく。

もともと彼女は極端に不器用だったのだが、このころになると、「納豆のたれのパックが開けられないから開けてくれ」とか、「目にまつげが入って取れないから取ってくれ」とか、まるで幼児が母親に要求するような世話を私に要求するようになった。自分の手でパックが開けられないならハサミでも使えばいいし、目にまつげが入って自分の手で取れないなら何度か水で目を洗ってみるなりすればいい。それでもまつげがとれなかったからといって、いったい何がそんなに問題なのか、死ぬわけでも目の病気になるわけでもなし、長くたって2,3日のうちに勝手に取れるだろう。不快に思って拒否するたびに彼女はものすごく怒って、「それぐらい素直にやってくれればいいのに、あなたはなんて冷たい子なの」みたいに文句を言うのだった。

それから、私を無料の医者とかジャーナリストみたいに扱うというか…… テレビで何か報道されたことについていったん不安になると、私を質問攻めにする。新しい感染症を媒介する虫が見つかったと聞けば「その新しい感染症を媒介するという虫はどこにいるのか、私にもつく可能性があるか、それで私は死なないか」とか、個人情報保護法がどうので医療機関でカルテ情報の共有をどうのと聞けば「私の個人情報が漏れないか、漏れたとしたら何が起きるか」とか。

本当にググレカス問題だ。「大人なんだから人の手を煩わせてないで知りたいことは自分でネットででも調べなさい」と言うと、「だって私は緑内障で目が見えなくなってきてるし、あんたはすごく物知りで頭がいいし説明もうまいから聞いたほうが早いんだもの」と言う。

カルテ情報の件については適当にあしらっていたら、彼女は通っている病院に駆け込んで「私のカルテ情報を消去してください」とかひとしきり騒いできたとのことで、恥ずかしくてちょっと絶望した。知的で上品だった母はどこにいってしまったのか、彼女はすっかり赤ちゃんみたいになってしまった、と私は思った。

私は一度彼女に「お母さんは、何か自分の行動を選択するときに、自分が万一間違ったときの責任を自分で負いたくないんでしょ。何か間違ったときに『義子がこう言ったから』っていうことにすることで自分の判断の責任から逃れるために、そんなにもなんでも私にどうしたら正しいのかを聞くんでしょ」と指摘したことがある。彼女は「違う、違うわよ」と激しく否定していた。

私は「母みたいな人に何か名前はないか」とずいぶんググって、「依存性人格障害」が近いかな、とか思ったりしていた。

母は、精神科の主治医と本気で向かい合おうとしなかった。主治医のことは単に「うまいこと振る舞ってできるだけたくさん薬を出させるだけの相手」と思っているようだった。いろんな愚痴も延々と私にこぼすので、「そういうのは精神科の医者かカウンセラーに言え」と言うと、「だって先生はお忙しいから悪いじゃない♪」と言う。目の前にいるあなたの娘だって自分の人生でお忙しいときなのだが、娘の人生を奪うことには悪いとは思わないのか……? 私はあなたの世話が大変すぎて、いまだに履歴書の空白欄が長くなりつづけてるし、友達とは連絡をとりづらくなるし、出会いを求めて出かけていくこともできないんですけど。

母の医者の前でのいい子ぶりっ子が上手だったのか、彼女の主治医がどちらかというと無能だったのかはよくわからない。もしかすると両方なのではないかと思う。おそらく、特にこのくらいの年代(現在後期高齢者に足を踏み入れているぐらいの年代)の精神疾患者には、このようにして不幸にも人生を棒に振ってしまった人が多いのではないかと、私は思っている。

彼女は漫然と睡眠薬(おそらく今出ているような依存性の低いものではないだろう)とベンゾ系の精神安定剤と胃薬を処方され、その医師の指定の用量すら超えた量の薬でフラフラして呂律が回らないほどになり、それでも夜眠れない(不眠傾向自体は事実なのだろうが、眠れない、◯時間眠らないといけない、というのは心気妄想のたぐい、少なくとも強迫観念に近いものだったのではないかと今は思う)。午後になって焦点の定まらない目で起きてくるので、正直怖かった。

母の症状の変遷:70歳ぐらいまで(私は30代後半まで)

それでもまだまだ生きてはいけていたのだ。生きていけないほどの状態になった最後のひと押しが、2011年3月の東日本大震災だった。

2011年は私が31になる年、母が63になる年。それはそれは多くの人が不安になる震災と原発事故が起きた。その不安と混乱がトリガーとなって、母の症状は爆発的に悪化した(もともとそうとう悪化していたのに)。

ともかく、何か買ってこいと言う。トイレットペーパーとかガソリンとか水とか。いくら論理的に説明していったんわかったように見えても少しあとになるとまた同じことを言い出すし、「そんな説明聞いてない!」と怒る。説得しようとすると半日ぐらい双方声を荒げなければならない。いま思えばこれは強迫症の巻き込み症状で、いったん聞いて理解したことを忘れてしまうのは、いつも強迫観念で頭がいっぱいになっていることによる健忘だ。

ねえねえねえねえといつまでも話しかけつづける。こちらは嫌々ながらきちんと返事をしているのに、返事をしてくれない! なんて冷酷非道な子なんだ! みたいに激怒する。これはもう明らかに妄想的で、私は「重いうつや躁によるものか、それとも統合失調症なのか、ほかの疾患なのかわからないが、ついに彼女は妄想を抱くようになったか」と思った。いまとなっては、これは妄想性疾患の妄想というよりも、「強迫症が進んで自分の症状への洞察を欠いている状態」なんじゃないかと思っている。

母は、私に「あれを買ってこい」と追い詰めたり「これは大丈夫か」と質問攻めにしたりするために、一日中、家じゅう、私を追い回すようになった。本当に驚いたのだが、私がトイレに入っていてもドアを開けてくることがあったし、夜中の2時3時で私が寝ていても枕元までやってくる。私がたまりかねてイヤホンをして寝ているとそれを力任せに引っこ抜く。こちらの頭がおかしくなりそうだった。(これは強迫症の文脈でいう「保証を求める行動」かなと思う)

水道水が汚染されているかもしれないという報道があったときには、近所の赤ちゃんのいるおうちに「きれいな水が余っていたら分けてくれ」と頼みに行ってしまった。私はこの一件は本当に恥ずかしかったし、絶望した。

5月になって、東電が「原発は実はメルトダウンしてました」と会見したあたりで、ついに母は半狂乱になって暴れた。ドアに鍵をかけてお風呂を入っていた私に激怒して、ドアをドンドンガタガタと揺さぶりながら「なんてひどいことをするの! 壊してでも開けるよ!」と叫んだのだ。

私にはすでに、不安に頭を支配されているときの母の独特の声のトーンを聞くと過呼吸を起こしたり、壁際に追い詰められて妄言をぶつけられているととっさに母の首に手をかけそうになって必死でこらえたりということが続いていた。父にも何度も国際電話をかけて助けを求めたが、父は彼女の異常さをまともに受け取ってくれず、「お母さんに優しくしてあげなさい」と言うばかり。このままでは母と殺し合いになってしまうと思って、私は実家からリュックひとつで逃げ出して、そのときに心配してTwitterで声をかけていてくれた男性のところに身を寄せた(これが現在の夫)。

その後は父は怒ってしまって、6年ほどの間、こちらから電話をかけたりしても応答してくれない状態だった。けれど6年たったころに突然向こうから電話がかかってきてこう言う。

「お母さんはここ1年ぐらい自力で生活ができなくなって、僕が仕事をやめて介護していた。いま彼女は検査入院していて、なんとか施設に入れようとしているが抵抗が激しい。いずれにしろ『胃酸が出る』という妄想がひどくてロクに食事がとれないので極端に痩せてしまった。僕も年をとった。いつ誰が死ぬかわからないから一度顔を見にきてくれないか」

ここからはほぼ父からの伝え聞きなので詳細はわからない。ただ、だいたいは以下のような感じだったようだ。

私が逃げ出してから、母は数年間はなんとか自力で生活していた。しかし、近所で空き巣が増えたとかサイコパス祖母が急に誤嚥して死んだとか、彼女が不安を強めるようなことが重なって(個人的にはなぜそういったことで生活に支障が出るほどに不安になるか理解ができないが、重度の強迫症ならそういうことがあるんだろう)、ついにロクに食事がとれなくなって痩せすぎ、筋力が落ちて歩けなくなってしまった。それで、海外で仕事していた父は仕事をやめて、1年ぐらいつきっきりで介護していた。

ワーカホリックで口の悪かった父はすっかり丸くなっていたし、もう私に対して怒りを見せなかった。ポロポロとこぼす言葉や家の中の様子からすると、彼も彼女の症状を目の当たりにして、そりゃあ娘だって逃げ出したくなるわとつくづく体感したのだろう。

恐る恐る母の入院先を訪れ、母のものだという部屋に入ると、90歳ぐらいかという骨と皮ほどにやせ細った老婆がこっちを見て「義子ちゃん……!」と叫んだ。それが母だと理解するというか、受け入れるのに30秒ぐらいかかった。入る部屋を間違えたのだと思いたかった。

母は、「いまからテキベンしてもらうの」と言う。それで父は苦笑して、「じゃあ少し待って終わったらまた来るわ」と言って病室をあとにした。自販機が置いてあるちょっとしたスペースでちょっと座って、「テキベンってもしかして摘便のこと? お母さん自力で排便できないの?」と聞いたら、父は「そうだ」と言う。

お母さんの様子はものすごくショックだ、90過ぎの死期の近いおばあさんに見える、と言ったら、父は「そうだろ、お母さん連れてると僕は『息子さんですか』って言われるんだ」と言う。

摘便が終わったとのことなのでもう一度行くと、今度は母は病室内のおまるにまたがりながら「あら、来たの」と言う。ボソボソと妄想的なことを5分かそこら喋り続けながらずっとおまるにまたがっている。小用ならそんなにかかるわけないのだが。「いいかげん済ませろよ」と父に言われて、母は陰部を隠そうとするそぶりも見せず立ち上がり、履いていた大人用の紙おむつを引き上げた。私はそのおむつを見ていて、「どうせ、トイレに間に合わないことなんかほぼないけど、万一漏らしたら困るからっておむつを希望してるんだろうな」と思った。おしりの肉がほとんどないのが見ていられなくて、ついには私は目をそらした。

若い頃はふっくらして美人で、赤い口紅を塗って都内まで仕事に出かけるから、私はちょっと自慢だったんだけどな。あの人がこんなふうにやせ衰えて、大人としての恥じらいまで失ってしまうとは。ショックが大きすぎて涙も出ない。

その後母は10分以上もアルコール綿で手のすみずみまで拭っていて(洗浄強迫)、枕の位置が5ミリ違うみたいなことで直して直してと父に延々と絡みんでいた(整理整頓強迫)。

なぜか個包装を開封して四つに割ったおせんべいが、開け口のところに洗濯ばさみを止められた状態で母のベッドの手元に整然と並んでいて、母は「ねえ、そのおせんべい新しい? 新しい?」と繰り返し父に訊いている(衛生に関する強迫観念)。私は、「きっとこのおせんべいの整列は何か理由があって母が父にやらせているんだろう」と思った。

そして、母はブツブツと話しながら小さなゴミ箱を抱えて、ペッペペッペと唾をその中に吐いている。「こうやって胃酸が出るから、食べ物が食べられないの」と言う(心気症)。見苦しいところ見せてごめんね、みたいな言葉も態度もいっさいない。

もう夕方になりかかっていて、「道が混むからもう帰るぞ」と父が言うと、母は幼児のように「いや! だめ! 帰らないで! 今日は泊まっていって!」と駄々をこねだした。ゴミ箱を抱えてその中に唾を吐きながら、「ほら、こうやって胃酸が出るの、こんなに胃酸が出るのよ、帰らないで、お願い、帰るな!」と叫び、地団駄を踏む(重度の強迫症での人格の変化)。父も声を荒げ、ある瞬間に廊下に響くほどの大声を出してしまって、「しまった」という顔で私を見た。

30分ほどいただけで私はすっかり消耗しきってしまい、父と一緒にうどん屋でなんとか早めの夕飯を流し込んでから、6年ぶりの実家の様子を見に帰った。

私が実家を出る5年ほど前から居間に築かれていた、彼女のための完璧な「コックピット」には、今は彼女の衛生に関するもの…… 点眼補助具やら、コットンやらティッシュやら小さなゴミ箱やらアルコールやらがもうそれはそれは、スペアのスペアのスペアのスペアぐらいの感じで累々と積まれていた。「点眼補助具なんてこんなに何個もいらないでしょ」と父に言うと、「うまく使えない、不良品だ、新しく買えってうるさいから根負けして買っちゃうんだよ」と力なく言った(巻き込み、心気症)。

和室の壁は一面にきれいに箱テッシュが詰められていた。「胃酸が出てそれを拭うのに使うから必要なんだってうるさいんだ。やっぱり根負けして買い続けててこうなった。まあ防音壁の代わりになるからいいんじゃねえか」と父は苦笑した。

トイレに行ってみると、便座に座って手に届く位置に、使いかけのペーパーロールがいくつも置いてある。これには見覚えがあった。緑内障で目はよく見えないし手もしびれて効かないから端が見つからないことがある、だからスペアを置いとくのが大事なんだと、私が実家を出る数年前から言っていた。私はこの、トイレに置かれた使いかけのペーパーロールがいまいましくて仕方なかったんだ。あのときは多くてせいぜい2つだったが、いまは4つ置いてあった。

病室で彼女の手元に並べられていたおせんべいについて聞くと、「『胃酸が出る』のが、おせんべいとかの硬いものを少し食べると止まるから、それでおせんべいが必要だと主張する。目も見えないし手も効かないから自分で個包装を開けられないし割ることもできない、だからああいうふうにしといてくれって言うんだ」と言う。納得した。非常に論理的だ。のちに、強迫症者の言うことはものすごく理屈っぽくて、ある面から見れば徹底的に筋が通っていると聞いて、いままたすごく納得している。

彼女の現状について詳しく聞くと、緑内障が進んで視野がかなり欠けているのと、筋力が落ちてほとんど自力では歩けないほかはなんの問題もないのだが、本人が「胃酸が出てしかたない、絶対に何かあるはずだ、検査してくれ」と聞かないので、納得させるために検査させてやっている状態だとのことだった(心気症でやたら検査を求めるのはよくあること)。

ここまで聞いて、私はぐったりして、飛行機に乗って夫のところに戻った。この日の夜、私は「今まで見たこともないぐらい激しくうなされていた」そうだ。そりゃああんな地獄を見たらそうもなるわ。あれから半年ぐらいの間は、母に似た白髪頭を見るとドキッとして背筋が凍る、という症状に悩まされた。

その後、彼女は2018年にやっと施設(介護サービスつき高齢者住宅)に入居した。チームで彼女のケアにあたっていて、定期的にカンファも開かれるらしい。私は父から頼まれてその施設の担当者と話すようになり(確か娘さんから一度話を聞きたいということだった)、母がその後どうしているか、その担当者からも少し聞くようになった。

父と担当者の話によると、その後の母はこうだ。

やはり検査しても胃には何も見つからず、成分的にも彼女が吐いているものは唾液だと確定した。彼女は精神科医から「肥大性妄想障害」と診断を受けた(DSM-5にはそういった診断名はないようなので、「妄想性障害」の仲間だと個人的には判断した)。

どこでそんな情報を仕入れたのか、「酸は75度以上のお湯で洗い流せる」と思い込んでいて、飲み物は熱いお茶しか飲まない。それだけでなく、手に胃酸がついたから洗い流さなければならないと言って、熱湯で手を洗って火傷してしまった。(荒唐無稽な強迫観念)

不眠も妄想もあるから薬を飲ませたいが、「私は狂っていないから」と言い張って向精神薬を飲んでくれない。お茶に混ぜてでも飲ませようかと相談している。

その後、彼女はベッドから落ちて腕かなにかを骨折した。それで今度は整形外科で入院してPTさんたちやら複数の人たちと日常的に接するようになったら、急に妄想的な言動がましになった。なんと薬も自ら飲むようになった。妄想もかなり落ち着いている。食べられるようになって、体重も少し戻ってきた。チームでは、適度の社会的交流が彼女の現実検討能力を健全なものに調整するのではないかという推測が出ていて、今後も何かこじつけて定期的に入院させようという話になっている(結果的に曝露みたいなことになった?)

いま思うこと

ちょっと、思い出すのもしんどいことを一生懸命思い出して書いて疲れてきたので、一部自分のツイートを引用してまとめたい。↓このツイートを開いて、ツリーをたどって読んでいただきたい。

ここ1週間ぐらいで知ったところによると、ためこみ症のは発達障害となんらかの関係があるらしい。母について思い返してみてもまさにまさにという感じ。

あと、矢野先生のサイトの特設ページで母の症状について10分ほどのインタビューに答えている。今回書いたことを簡単にかいつまんで話したものだが、もしよければご参考に。

私(の母)のケースの詳細なストーリーが、誰かの役に立ちますように。

追記:「ためこみ症者家族の会(HRAJ)」はじめました

ため込み症者を家族やパートナーなど親しい人に持つ人のためのオンライン自助グループ/当事者会をはじめました。詳細は以下の記事から。


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