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魔法瓶の下で口を開けレバーを押して冷えた麦茶を飲もうとしたら、上から熱湯が注がれ、飛び跳ねながら台所を駆けまわった話。

 「民具」と言われると、博物館などに展示されている土だらけのものを想像してしまう。だが、時代は、明治、大正、昭和と過ぎ去り、日本の「会社」が総力を結集し、数々の道具を作り上げ、我々の生活を圧倒的に便利にした。やかんからスマートフォンまで。生活の物語を奏でてくれる「みんなの民具」について考える。

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 昭和40年代当時の家庭に爆発的に普及していた花柄の魔法瓶。筆者が、「あ、うちにありました」と言うと、「みなさん、そうおっしゃられます」と係の方は冷静に答えた。


 熱々のお茶に「チンチン」に冷やしたビール。やれ味噌汁ぬるいだの、燗が熱すぎだの、温度にうるさいのは昭和の頑固親父と相場が決まっているが、さて、「みんなの民具」、今回のテーマは魔法瓶である。

 魔法瓶の「魔法」とは、「温かいものは温かく、冷たいものは冷たく」保つ魔法である。いま思うと、「なんだそんなことか」と思ってしまいがちだが、時は昭和の高度経済成長時代。わたしたちは、冷や飯だのぬるいお茶だのと、あたりまえのように接してきた。この「保温」がどれだけうれしかったことか。

 魔法瓶がみんなの生活の中に入り込んできた。現場作業で汗を流すおとうさんの昼ごはんは、携帯ポットの温かいお茶で充実したものになり、当時のこどもたちの運動会や遠足のお弁当も、氷の入った冷たいカルピス入りの魔法瓶で、目一杯のごちそうになった。

 そもそもそんな魔法瓶っていったいなんなのだろうか? いままでそんなことを考えたこともなかったが、今回「象印まほうびん記念館」(象印マホービン株式会社)を見学させていただいたことをきっかけに、みんなの民具・魔法瓶について考えてみたのであった。

 魔法瓶は、1881年にドイツの研究者が、液化ガスの保存用に製作した、二重壁のガラス瓶(壁間は真空)が、その原型とされている。その後、イギリスで内部のガラスを銀メッキ加工した「デュワー瓶」と呼ばれるものが製作され、1904年にはドイツのテルモス社がはじめての商品化に成功。1908年、晴れて魔法瓶は「寒暖瓶」の名で日本に輸入された。

 1908年といえば、明治もそろそろ終わりを迎えようとしている明治41年である。その頃、日本では、赤旗事件、桂太郎内閣の発足、また、韓国併合の方針が決定するなど、近代化へと向かう時代の波にもまれていた。

 翌年には、赤坂離宮、両国国技館などが建造され、伊藤博文が韓国のハルピンで凶弾に倒れた。また、この頃、味の素、リボンシトロン(大日本麦酒)が発売されたことも注目である。

 明治男の鼻息とため息が聞こえてくるような時代から10年。1918(大正7)年に象印マホービンが、また1923(大正12)年にタイガー魔法瓶が設立され、国産の魔法瓶がお茶の間に姿を現した。

 象と虎のシンボルマーク。

 両方とも大阪を本拠地とする会社だ。これは電球のガラス製造技術や「真空」の技術が魔法瓶製造の技術に応用できたため、ガラス製造の本場であった大阪に魔法瓶を作る業者が続々と現れたことが原因であった。

 魔法瓶の構造自体は、ガラス製の二重壁の間を真空状態にし、熱伝導や熱放射を抑制し、温度を保つという比較的シンプルなものだ。だが、その構造のおかげで初期の魔法瓶は「割れる」という特性を持った。魔法瓶自体の重量も重く、落としたりぶつけたりすると内部の銀メッキされたガラスが粉々に割れた。現在のようにモノの溢れる消費社会ではなく、大枚はたいて買った大切な魔法瓶。母親に怒られながら、一緒に修理に出しにいった記憶が脳裏をよぎる。

 魔法瓶は、長い間、お茶の間やアウトドアで活躍し、少しずつ進化しながら愛され続けている「みんなの民具」だ。こどもが遠足で落っことしては割り、おとうさんがちゃぶ台ひっくり返しては割る。いつでも熱々のお茶が飲める。魔法瓶のおかげで茶の間には「温かい空間」が生まれたけれど、それはまた同時にもろく壊れやすいものでもあった。

 ふと、目を閉じると、コタツの上にみかんの籠と一緒に置かれていた花柄の魔法瓶の姿をいまでも思い浮かべることができる。おかあさんの作る覚えたての洋食と魔法瓶。それはある意味、家庭に咲いた昭和の花だった。

 壊れやすいという特徴も徐々に改良され、さらなる便利なものへと変わっていった。魔法瓶の底に回転台が取り付けられたり、魔法瓶を持ちあげなくてもお湯をコップに注げるようなポンプ式のレバーが取り付けられたりした。

 個人的な話だが、我が家では夏場、冷えた麦茶が魔法瓶に入れられ台所に置かれていた。学校から帰った汗だくのわたし(小学生)は、そのまま一目散に台所に行き、魔法瓶の注ぎ口の下で口を開け、そのまま上のレバーを押して(コップに注がずに)飲んでいた。

 ある日、いつものように魔法瓶の下で口を開けレバーを押すと、上から熱湯が注がれ、そのワルガキは飛び跳ねながら台所を駆けまわった。それを見ていた母親がひと言。「おまえもたいがい馬鹿だね。いつかやるんじゃないかと思ったわ」と言い放った。母は強し。これも忘れがたき昭和のエピソードだ。

 そのうち、レバーは電動式になり、そういう馬鹿がやけどをしないようにロック機能なども施された。もちろん、内部は壊れやすいガラスではなく、ステンレスや樹脂などへと変化していった。

 単なる保温の役割からお湯を沸かす機能も追加され、カルキ抜きなど高性能化が進んでいく。一方では、デザインや形状もさまざまに進化し、小さくて持ち運びに最適なファッショナブルなものや、昔のデザインを意識したレトロタイプのものなど、家庭、個人にかかわらず、いまだに人々の魔法瓶に対する関心は衰えていない。

 象印まほうびん記念館では、魔法瓶だけではなく、炊飯器、電子ジャーなど、茶の間で元気に活躍した数々の民具の歴史が眺められる。歴代のCMなども観られ、(たとえば栗原小巻、岩下志麻など)、それらの製品がいかに茶の間に浸透させたい便利で大事な商品だったのかということがよくわかる。

 魔法瓶を見れば時代がわかる。これはけっして大げさなことではない。こうしてみると、魔法瓶という民具とそれを取り巻く家族のあり方が、時代をくっきりと映し出すことがわかる。

 2001年にスタートし話題になったが、魔法瓶を使って、離れて住む高齢者の「見守り」を行う機能(象印みまもりほっとライン)など、魔法瓶の存在意義は時代に合わせ、ますます変化している。

 「まあ、お茶を一杯」。

 喫茶去の国・日本において、いつでもお茶を飲める魔法瓶のある暮らしは、ある意味しあわせの象徴。いつまでもなくしてはならない民具なのかもしれない。


〜2016年7月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂


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