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(第14回)ブルーライト・ヨコハマ〜横浜の仄暗いあかり

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薄暮の山下公園には氷川丸が係留され、ヨコハマを見守る。


 きれいなお姉さんのかわいらしい節回しと、こどもをちょっとだけムズムズさせるような色気が印象深い歌だった。1969年にヒットしたいしだあゆみの『ブルーライト・ヨコハマ』である。以前この稿で取り上げた青江三奈の『伊勢佐木町ブルース』は前年(1968年)のリリース。その頃わたしは幼稚園、街に流れたこの2曲が、強烈なインパクトで幼児の脳裏に刷り込まれた。

 後年、ブルーライト・ヨコハマの作詞家である橋本淳がこの曲の背景についてインタビューで語っている。それによると、この曲の描く「ヨコハマ」とは、有数の観光スポット「港の見える丘公園」からの景色だと言う。

 昭和30年代のヨコハマは、いまほどの圧倒的な発展はなく、まだまだ郊外の街であった。だが、その国際色豊かな歴史から、芸能人や若い文化人たちが集うオシャレな街だった。都心からクルマを飛ばし、山下町「ホテルニューグランド」のバーや元町のナイトクラブ「クリフサイド」、バンドホテルのライブハウス「シェルガーデン」などに多くの洒落者が集った。本牧には在日米軍の住宅地(ベイサイドコート)が置かれ(1982年返還)、いわゆる「塀の向こうのアメリカ」が、街の景色や文化に影響を与えていた。

 「港の見える丘公園」は1962(昭和37)年に開園した。終戦直後にヒットした『港が見える丘』(東辰三作詞・作曲)にちなんで命名され、園内には歌碑も建っている。元町商店街から坂を上がりきった丘の上。ここからは川崎や横浜の工場地帯が見渡せる。作詞家の橋本淳氏は、この景色から「ブルーライト・ヨコハマ」のイメージを着想したらしい。

 わたしが、度重なる親の転勤の末、横浜に舞い込んできたのは昭和50年のことだった。縁あって本牧にある高校に進学し、前述の米軍住宅の隣で青春時代を過ごした。誰も住んでいない米軍住宅の庭にもぐりこみ、ミリタリーポリスに追っかけ回されたのは苦い思い出だ。また、運動部の「走り込み」などという色気のない用事で、港の見える丘公園にもたびたび足を運んだ。

 7、8キロのロードワークを終え、公園の広場で腕立て伏せをする(当時はまだ空いていた)。汗をひかせながら、薄暮の公園から景色を眺める。「まちのあかりがとてもきれいね、ヨコハマ、ブルーライト・ヨコハマ」という歌詞が薄く脳内に流れる。ただなんとなく「殺風景な景色だな」と感じた。橋本淳氏もこの景色を「真っ暗でさびしい風景」だったと振り返っている。実際の『ブルーライト・ヨコハマ』の歌詞には、その頃ブルー・コメッツといっしょに訪ねたフランス・カンヌで見た景色への憧憬が加わっているという。

 時は過ぎ70年代の終わり、この街を舞台にしたいろいろな曲が流れた(たとえば『横浜ホンキートンクブルース』)。港の見える丘公園の麓にあたる山下町から本牧にかけて、「リキシャルーム」「ゴールデンカップ」「イタリアンガーデン」「リンディ」など、遊び人たちが夜な夜な飲み歩いた名店の名残がまだそこにあった。高校生では、なかなか手の届かない場所だった。

 横浜のまちのあかりはとてもきれいだった。だが、それはLEDによってライトアップされた華やかな照明(あかり)ではなく、東京とは違う、どこか仄暗い灯りだった。『ブルーライト・ヨコハマ』を聞きながら、いまそんなことを思い出している。(敬称略)

〜2019年12月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂

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歌のあとに出現した横浜ベイブリッジ(1989年)。「マリンルージュ」から望む。

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