マウンティングの終わり、ダンスの始まり。
今朝、オードリー若林のコラムを読んでいて考えたこと。
もう間もなく、マウンティングはダサいことになると思うんですよ。どんだけ自分が没頭できるものを持っているかということが大事な時代に、そろそろなってくる気がしています。
以前も少し書いたけれど、これまで自己表現の場というのは物理的に限られてきた。小説家や漫画家になるには賞に応募しなければならないし、歌手になるためにはオーディションに出て数万人との競争に潜り抜け無ければならなかった。
でも今ではそうした厳しい競争を潜り抜けなくとも、さまざまなSNSやWebサービスが広く人々に自己を表現する場所が人々に供給している。そのほとんどは無料だ。
ひと昔であれば成功した者に対して「アイツは運が良かっただけ。本当は俺の方が・・・」と自分を慰めることができたかもしれない。そんな時代であれば、批評家のような立場でマウンティングすることで、自分は優れていると言い張れることができたのかもしれない。
しかし、2018年の今はどうか。もし同じセリフを言ったならすぐにでも「だったらYoutubeでもブログにでも発表してみたら?」という言葉が返ってくるだろう。
いまなら文章でも音楽でもダンスでも芸術でもお笑いでも、表現したいものがあれば簡単に公開することが出来る。もしインフルエンサーの誰かの目に留まればすぐにWeb上で拡散され、多くの人の目に留まることになる。
いまや「運や才能を言い訳に出来ない時代」になってきたといえる。
これまでは運とか才能を隠れ蓑にして、頑張らない自分を正当化することが出来た。成功する確率がどれほどかわからない努力をするよりも、頑張る人を斜めに構えて評論することで、まるで自分の方が優れているというポーズをとることが許された。
でもインターネットの出現が自己表現の機会を増やし、そして分散化させた。百万人に一人の才能と努力を持ち合わせていなくても、なにかを表現すれば、それを認めてくれる人と巡り合うことができるようになった。
自己表現の場が限られていたときには、少数の表現者と多数の観客という構図だったけれど、いまはだれもが表現者であり同時に観客でありうる。
より多くの人が何かを表現することを楽しめる時代。
そうなると、批評家のポジションでのマウンティングはあまり意味をなさなくなってきた。
あなたが誰かの観客であるとき「ところで、あなたは何が好きなのか?」、「あなたは何を表現するのか?」を問われているのだ。
だったら、下手でもなんでも舞台に上がって一緒に踊った方が楽しいじゃん、という空気がいま確かに生まれようとしているのではないか。
同じ阿呆なら踊らな損々。
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