だれかに注目されることは気持ちが良い
今日は朝から担当プロジェクトの定例会議で今週の進捗を報告した。海外現地法人のスタッフも含めると30名ほどが参加するなかで、議論の中心になって会議を回していく。
電話会議だと自分が発言しているときは全員がミュートにするのでなおさら皆が自分の発言に耳を傾けている(ような気がする)。なんだか自分がこの場の中心にいる気がする。そして、自分が重要な人物のような気がしてくるし、それは独特の高揚感と気持ちよさをもたらしてくれる。
会社の役員、スタートアップのCxOなどは日々この何倍もこのような場面に遭遇して、スケールは違えど私が今朝感じたのと類似の感覚をより多く、濃密に味わっているのかもしれない…そんなことを考えながら、楠木建さんの対談の中での下記のエピソードを思い出した。
この1年でZOOMやTEAMSでの会議が主流になって、この「光」という表現が実感をもって理解できるようになった気がするし、決して他人ごとではないなと思ったので、今日ここに書き留めておく。
この光が恐ろしいところは、いつしかこの光を得ることが目的となっていくこと、そして、その光はいつしか得られなくなる、という点にある。
仕事の動機を内発的なものと外発的なものがあると考えてみると、以下のようになる。
(1)何かをしたいと思う … a. 内発的
(2)何かをすることが楽しい
(3)行動の結果、なんらかの成果を出す
(4)その成果物に他人から評価を得る
(5)褒められてうれしい … b. 外発的
a. 内発的な動機→行動→成果→他者からの評価、注目(=b. 外発的な動機)→行動→成果→他者からの評価、注目…このようなループを繰り返すうちに、行動の原点にあったはずの内発的な動機を見失ってしまい、他者から評価されたり注目されたりすることが主な動機となってしまう。つまり、「光」を浴びることが目的化してしまうのだ。
会社で働いていれば必ず退職が待っており、スポーツ選手やアーティストにはパフォーマンスのピークと引退がやってくる。どんなにスポットライトを浴びていても誰しも舞台を降りる時が来るのだ。その瞬間というは、光を浴びていた人ほど、寂しく辛いものなのかもしれない。
さらに、人のアテンション(注目)の総量は限られており、アテンションの投入先がリアルからバーチャルへの比率が高まっているこの時代に、人から注目を集めることは、仕事でもプライベートでもますます難しくなってきている。
こんなことを考えていたら、近年のマインドフルネスやセルフアウェアネスといった言葉への注目の高まりや、楠木さん流の言葉で言えば「良し悪し」から「好き嫌い」へ、という発言が腑に落ちてきた。
他者から浴びる評価のスポットライトはまぶしくてついつい内なる動機の灯火を忘れてしまいそうになる。気を付けていこう。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?