見出し画像

マリア様はご機嫌ナナメ 16 進路相談

 桜が咲く季節に僕たちは三年生になった。ヒナコとマリアはもう進路がほぼ決まっている。ヒナコは美術系の短大、マリアは音楽系の四年制大学だ。二人とも高校の推薦を受けて、ほぼ合格は間違いない。
 僕はその日ヒナコの家にいた。ヒナコとマリアがいない時間に訪ねた。ヒナコのママに思い切って、ヒナコの家庭教師を終わりにしたいことを伝えた。
「もちろん、いいわよ」
ヒナコのママは快く僕の申し出を受けた。
「でも、カイ君に会えなくなるのはちょっと淋しいけどね」
ヒナコのママは微笑んで見せた。まるで自分の息子、いや、将来の娘の夫を見つめる目だった。

 本屋のバイトは続ける。少しでも学費を貯めたいからだ。その日も学校が終わって本屋に出た。
 「カイ、早いもんやな。もう三年か」
タカオさんが奥のカウンターに座って僕に声を掛けた。
「お前、担任は確か、松本やったな。アイツはオレの同級生やった」
松本先生は僕の担任だった。大阪市立大学を出て国語の教師になり、母校に赴任していた。市大をでたから、相当優秀な生徒だったに違いない。
「進路、どうするねん」
タカオさんは続けて僕に訊いた。
「まだ、はっきり決めてません」
僕はそう答えた。
「松本やったら間違いないから、ちゃんと相談してみ。ワシも兄貴も高校のころ麻雀ばっかりやってたから相談されてもまともに答えられへんから」
タカオさんは自嘲気味に言った。
 一学期の中間テストが終わり、個別の進路相談がもたれた。保護者も同席するのだけど、僕の母は仕事で出られなかった。
「オカアチャン、難しいこと分らへんから、あんたの希望を伝えたら」

 放課後の教室で松本先生と向かい合った。まだ夏には早い梅雨の雨の日だった。
「進堂。先ずはオマエの希望から聞こうか」
僕は思い切って先生に早稲田を受けたいこと伝えた。
「うん~、成績的には五分五分やな。で、早稲田に行って何をしたいねん」
僕は正直な気持ちを言った。
「文学部に行って、文学をやりたいんです。作家になれるかどうかはわからへんけど、出来たら本を創る仕事に携わりたいんです」
 松本先生は腕を組み直し真剣な顔で僕に言った。
「ええな、若いって。俺も高校のころはそんな夢を見てたな。でも、早稲田は東京にあるんや、下宿代と学費はどうするねん。オカアチャン今でも働いてるんやろ」
 松本先生も実は早稲田に行きたかったんだ。でも経済的に難しかったので学費の安い地元の大阪市立大学に進んだ。先生の渋い顔を見て、僕は冗談風に、
「分かってますよ、家も貧乏やし、記念に受けてみたいんですわ。青春時代の夢の欠片としてポケットにしまっておきたいんですわ」
引きつって話す僕を見て先生は、
「馬鹿やろう」
と短く言っって、目じりをそっと拭いた。

「アニキ! 今日の晩、店終わるころにあの松本が来るんや。なんかカイのことで相談があるみたいやから一緒にきいてくれへんか」
訪ねてきた松本といつもの喫茶店に座ったカズオさんとタカオさんは彼の話を訊いて渋い顔になった。
「カイが早稲田か」
「アイツは冗談交じりで記念に受けるだけだと強がってるけど。あれは真剣や」
松本が言った。
「かといって俺もしがない公立高校の教師やろ。金を用意してやりたいけど、先立つものがないからな~。それに立場上まずいからな」

 そんな三者会談が持たれたことを僕は知らなかった。僕の周りで時間だけがいつもの倍くらいのスピードで過ぎていった。

 一学期が終わり、また夏休みがやってきた。終業式の後、久しぶりに僕はヒナコの家を訪ねた。冷たい麦茶を飲んだ後にヒナコのママが僕に訊いた。
「いよいよね、夏は受験の天王山っていうでしょう。ヒナコもマリアちゃんも、今年は何処へ遊びに行こうかなんて話ばかりして、呑気なもんね」
「羨ましいですね、お嬢様たちは」
「もう本屋のバイトも止めて、勉強に集中するんでしょ」
「それが、そうもいかないんですよ。なんせ家が貧乏でしょ。だから少しでも学費と生活費を貯めないとね。焼け石に水ですけど。まだぜんぜん足りないので東京は遥か遠く彼方ですよ」
「カイ君、お昼食べていくでしょう。もうすぐ二人も帰ってくるから」

 「おなかすいた」
とヒナコ。
「腹減った」
とマリア。
天使様と悪魔様のお帰りだ。

部屋に入ってきた二人は僕を見つけて、
「カイ様ではありませんか~~」
ヒナコがおどけて言うと、
「馬鹿やろう、ちっとも顔を見せないでマリア様をほおっておくと何処へいちゃいますよ」
相変わらずのマリアの毒舌だ。
食事が終わるころヒナコが言った。
「ゆっくりしていけるんでしょう、今日ぐらいは」
「そうもいかないんだ。なんせ金を貯めなきゃね」

 バイトもしなきゃと強がった僕だけどやっぱり焦りがあった。八月一杯にしよう。そう心に決めた。朝十時から夜十時まで働いてバイト帰りにその足で風呂屋に行って、さっぱりしたら朝の三時ごろまで深夜放送を聴きながら勉強をした。勿論、旺文社の大学受験ラジオ講座は外せなかった。同級生たちは四月から予備校の現役生コースに通っているし、夏休みはクーらの効いた部屋で夏期講習を受けていた。僕にそんなお金は無かったのでラジオ講座が頼みの綱だった。
 
 早稲田の文学部は文系だったので受験科目は国語・英語と社会科を選択する生徒が多かったけど、僕は社会科より数学が得意だったので、あえて数学で勝負することにしてた。
 わら半紙を一束(千枚入り)を買ってきて何度も何度もそれに解き直した。数学の赤チャート、英文解釈の参考書、古文の参考書、現国の参考書。勿論、本屋でバイトしていたので本当は駄目なのだが割引き価格でわけてもらった。

 あっという間に夏が過ぎた。八月いっぱいでバイトを止めたいことは既に伝えてあった。

 八月も押し詰まったある日、カズオさんが僕に声を掛けた。
「今日、松本先生が店終わったら来るから、ちょっと話しよ」

 「松本から聞いたけど、カイ、お前そうとう煮詰まっとるようやな」
タカオさんが切り出した。
いつもの喫茶店だ。前にカズオさんとタカオさん、僕の横に松本先生が座ってる。
 僕は俯いて黙って話を聞いていた。
「お前、本当に早稲田へ行きたいんか」
カズオさんが僕に問う。
僕は下を向いたまま、
「はい、行きたいです」
僕は答えた。

 「ん~」
長い沈黙のあと、カズオさんが言った。
「分かった。松本先生からも相談受けてワシら三人で考えたんやけど、ワシらで学費を何とかしたるわ」
形は本屋からの奨学金貸付ということで、返済開始は卒業して社会人になってからの分割払いで良いとの条件だった。何ということだろう。こんなことが本当にあるのか。

「本当にいいんですか?」
僕が訊き直すと、
「当たり前や。あたり前田のクラッカーや」
タカオさんが「てなもんや三度笠」のセリフで答えた。

「ありがとうございます」と言う僕の声はもう涙声になっていた。
「泣くなよ、男のくせに」
タカオさんも半分泣きそうな声で僕を叱った。

 「そのかわり、ワシらが東京に遊びに行ったらちゃんと案内するんやで。勉強ばっかりしてたらアカン。ちゃんと案内できるように東京の街よう調べとくんやで。可愛いネエチャンも頼むで」

松本先生も涙ぐんだ声で、
「良かったな、進堂」と僕の肩をたたいた。

僕は母とヒナコのママにそのことを伝えた。二人とも我が事のように喜んでくれた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?