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回帰

いま、この切っ先の、いまここで、今この瞬間は当たり前に、ものすごく、クリエイティブだ。
創造性とは、それぞれの「今」のことだ。

いまって今しかない。
常に新しい未知が「今」創造されている。

「今」それ以外は
もう存在しない過去か、未来になる。

いま文字をスマホで打っている、この今以外は実在していない。

その今が過ぎ去ったとたん
私たちは解った気になる。知っている気になる。判断する。過去を当てはめて既知のものにする。

頭の中では時が止まったように過去と未来が混在している。

今を思考することはできず、思考とはほとんどが過去と未来である。

いや、もしかすると、思考は100%が過去と未来かも知れない。

だって私たちは、自動的反応のあとで解釈をしているだけだと言われている。

私たち自身は自分の解釈が真実だと信じて人生を送っているけれど

自身の意識よりも先に、この体は反応し行動する。その特性は、人類全てに共通しているらしい。

行動からゼロコンマ何秒か、意識のほうが確実に遅れているのならば、意識とは全て過去のものとも言えるかも知れない。

起こることは、ただおこる。
起きたあと、一瞬で脳は解釈する。


自由意思、決定論、自己責任
まだまだ謎の多い私たちの精神であるけれども

私は人間とは、自分の責任を自分自身で引き受けられる存在であると思っている。

しかし、自分にまつわるさまざまな事象については「ただ起きている」と思った方がいい。それでずいぶんと気楽に生きられる。

自分の手には負えない
人の考え、世界の動き。

今という切っ先は、完全な無垢である。
そのとき解釈はない。無限の可能性が豊かに存在している。

部屋に入り込んだ一匹の虫、その一瞬先でさえもまったく自分の理屈が通じない。コントロールできない。

今ここで起きることは、無垢に受け止めるしかない。


ちかごろ、毎晩二時間ほど
過去に仕事で関わった女性の悩み?愚痴?を聴いている。
鬱だと言う。
彼女は私にカウンセリングを受けているのだと言っている。
聴き始めて何日が経つだろう?20日か30日か…

毎晩、彼女の言葉に、その場その場で反応を返しているだけだが
自分でもどうして付き合っているのか、解らない。

私はプライベートで人と関わりを持つことは少ない。私と関わろうと一年に一度なりとも会う機会をわざわざ作ってくれる人は(血縁者を除き)三人しかいない。

そんな私と一対一で話をしている。LINEを交わす。
わたしは問いかけられ求められるままに返している。
その瞬間の彼女に対して、ただ反応しているだけだ。

これは何が起こっているのか。
意味はない。
ただ起きている。

そしてその時、私はクリエイティビティーを発揮している実感がある。

1日二回のときもあるし、電話とLINEのときもある。だいたい二時間ほど、とにかくアクションを起こされ、それに反応する自分を、私自身が楽しんでいる。

仕事でもなく責任もなく
彼女をどうにかしようとも思っていないから、ただ勝手気ままに反応できる。
その時にひらめいたことを返すだけで、彼女は満足して眠れると言う。

そうして毎晩やっているうちに、ふと、なんか自分はどうなりたいのかを見つけてしまった。

こういうのは有難いなあ、と思う。

なんか知らんけど、毎夜毎夜ドアをノックしてくれているからかな、と思うんだ。

非常に書くのをためらう言葉ではあるけれど…

「愛に還りたいんだ」という言葉がぴったりはまった。
そうだ、私の目的ってこれだ、と。
愛を思い出して、それに戻りたいのだ。

自分には愛というものが欠落していると、数年前まで信じていた。
自分の中にも、もちろん他人や社会の中にも愛を感じてはいなかった。
愛って何よ?どこにあるんよ?
そういう気持ちだった。

しかしやがて、この世界には愛しかないのかも知れないと思い始めた。

何でもいいんだ、生きるとは自由だ、と。
この世は信頼していい、と楽しくなってきた。
ひとつひとつ怖いものがなくなってきたんだ。

どうしてこのような変化があったかというと、自分なりに這い上がるには、その落ちている自分を認めるしかなかったからだ。

自分を認めだすと、自分を見つける事ができる。自分に見てもらえていなかった可哀想な自分を見つけた。
ボロボロで可哀想な自分を愛したいと思うようになった。
あの手この手で自分を少しずつ愛せたら、愛せた自分から愛が溢れてきた。
そして自分の見る世界が変わってきた。

これが、解釈だ。

自動反応は昔も現在も変わらない。
いつも
なんだって勝手に起きる。

起こることは起こる。

それは、風が吹くように、季節が変わるように。こまごまとした事象は突然やってきては去っていく。

その自然に起こる人間関係などの現れに対して、自分の解釈が変われば、事実は変わる。現実が変わってくる。

私たちの解釈とは、それぞれの過去に依るものだ。

過去の体験からの意識が、起きたことを判断していく。
私とあなたが同時に経験しても、その事実はそれぞれ独自で別の解釈となる。


いま、可能性は無限だ。
いまここは無垢なのだ。
良いも悪いも、無限に選択できる。
それがクリエイションだ。

頭の中に常にある過去(後悔が強力だったりする)と未来(不安が強力だったりする)の力関係でもって、今起こっていることを判断する。

判断するのは、怖いからだ。

判断するのは、カテゴリーに分けるためだ。
これはこういうことだ。
これはこの先こうなるだろう。

見通しをたてたり、理解できなければ私たちは怖い。自分を取り巻くいまの無垢さを信頼出来ない。

本当には良くも悪くもなく、ただ起きているだけだけど
解釈によって、幸不幸がひっくり返る。
それがこの世の理屈なので、思考は目まぐるしく過去と未来を行き来する。

私は、精神科に通う彼女を、安心して見ている。ちっとも心配なんかしていない。
その態度に、自分の愛を知る。
アウトプットによって気づく。

彼女の自主性に完全に委ねている自分のあり方を知る。
私は自分自身を見て喜ぶ。
自分が自分のあり方を喜んでいる。

外側の彼女からの評価ではなく、自分の内側から評価があることに、満足する。

自分さえ認めていたら、なにをしても充分満たされるんだ。



仕事や彼女とのやり取りとはまた違う所で「やりすぎ」だと他者から言われていた。
一人で頑張りすぎで「他に振ればいい」とべつべつの口から続けざまに言われた。
私が見る世界からのアドバイスだ。

そうか…まだまだ私は自分が見えていない。
頑張っているつもりは無かったんだけど…

毎夜、彼女には頑張る必要も耐える必要も全く無い、それは逆行だ、と自分が伝えていた。

私もだ。
もっと、自分を大切にしよう。
まだまだ自分を認めていない事がたくさんある。

いまよりももっと、自分を大切にできるんだ

ずいぶん楽に過ごしているのに、まだもっと良くなれるんだ…すごい、やばい、と喜んだ。

もっと自分を知ろう。認めよう。尊重しよう。
そうしたら、この世界がさらに、自分によって優しくなるだろう。

愛に回帰する。
自分に還る。

私と関わる人から、この手足をつかって、空や木々をみて、生活フィールド全体によって、私は思い出していく。

今日も、仕事で介護支援をしていた利用者さんがひとり亡くなり、そしてまた新規の利用者さんに初めてお会いすることになった。

出会いに恐れず、自分の理解の深まりへ期待を寄せる。

亡くなられた方との出会いに、新しい方との出会いに感謝する。大変だろうと困ったことが起ころうと、関係ないと思う。

私はこのフィールド全体で、自分を見ることが目的なんだ。

私たちはみな、自分を深く見るたびに戻る。
気づいてゆく。

本当は自分はどういうものなのか、いまここにいながらにして既に、いつだって、回帰するんだ。

秋の色!美しい。



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