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神か自分か母親か

私は神様を信じていた。
両親が熱心な宗教家だからだ。
修行や作法はなんにもしなくてよかったけれど、思想だけは、子供の頃から強く聞くことになった。

神様が外にいると思っていたので、まあ、満たされないこと。

誰が見ていなくとも、神様が善き行いはちゃあんと見てくれている。と小さな頃から言われていた。

善人には程遠い私は(当たり前だけど)いつも善き行いは出来ないので、それも全知全能の神様はきっちりお見通しだと思って、いつも怖かったなあ。

宗教は人間の秩序のために必要だと言われてる。人々の道徳的観念、良心を作るために必要だと。

つまり、『人間はほっとくと悪いから宗教が必要』という性悪説だ。

自然は厳しく、ちっぽけな人間は翻弄されるから、この厳しい世界に人間の営みなどは意味が無く思えてしまうと、不安や孤独で無秩序が生まれる(かもしれない)

だから、宗教でもって神や仏に近づくことを目指して、聖典や経典に従うことが必要だった。
尊いものを信仰することによって、この世界には法則があり、物事には意味があるんだということを示す。この世だけではない、あの世だって続くのだと。
それで人間は責任をもって社会で生きていくことができる。

ウンまあ、そりゃあ、わかるよ。
指針が大切だったろう。

でもさ、それは、鉄棒で逆上がりできない人のための登り板というか、泳げない人のための浮き具というか

もう人類の集団的秩序の発生から一万年とか経ってるし、現代にはそぐわなくなってきたというか、必要無くなってきたなー感が、ある。

無秩序を生むのが無知だとしたら、もう情報でみんな賢くなるやん。

人間は信仰がなければ自己制御が出来ないと思われて続けてきたみたいだけれど(それは、自然と向き合うことが必要な時代はそうだったろう)
だんだん世界に無宗教者が増えているのは、もう必要が無くなってきたからとちゃうかなあ、とおもう。


この現代で尊い正しさを追うって、めっちゃめっちゃキッツい。傷つくし、疲弊する。

Googleさんとか、有名な人が禅(瞑想)をするようになって、神は外に居ない、すべては自分の中にあった、というような情報がわんさか出て

あー、正しさって無いんだなあ、とか、無意識って繋がってるんだなあ、とかいう事が多数の人が知るところとなって、他の考え方の否定をしなくていい、「うちのやり方が正しくてあっちが間違ってる」とか言う事が(争いが)茶番だったようだ、と明らかになってきた。

そうなると宗教とかは、純文学が好きだとか、素潜りの魚突きが好きとか、わたし剣道と神道が趣味なんです、とかそういうことになってきて

自分、これ、ウマがあうんよね

そういうものやないかな、とおもう。

私は修行好きで、何でもかんでも現実を神様に少しでも近づくための手段として捉えてしまうクセがあるんだけど、それは案外、蓋を開けてみると母親への思慕からだったりとかね。


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