見出し画像

勝ち負けがわからない

下の娘は鉄砲玉みたいな多動性があったので、義務教育の間に壁にバンバンぶつかって、中学生あたりにはすでに自分の感覚を抑え込んで窮屈な人生(社会に求められること)と格闘することになっていた。

高校生くらいにはもう人生を悲観しており、寿命はもう充分だ、20歳までには人生を終えたい、とのたまっていた。

次女は私と趣味思考が全く違うので『お母さんと私は違う』と早くから認識し(諦め)て親と対等に付き合うことができている気がする。

私には次女の感覚は分からないし、彼女も母の感覚は分からない、ということを土台にできているので、結果、案外分かり合えている(ような気がする)

しかし親子なので、ヤッパリ同じように思うところもあり、そのひとつとして、彼女のこの世界の生きづらさは、成功や夢を追う社会の価値観に合わないことからくるのではないか、と感じる。

勝ち負けや、スポーツ、ゲームで競う事などが全く感覚外であると、この資本主義社会の中では指針がつかめず、正しいレールから外れてしまうように思ってしまう。

マルが正解で、一位は偉くて、上手にできると誉められて、お友達は多いほうがよく、明るくいることが求められ、健康で前向きであるほうが勝利とされている。

成功すれば称賛され、夢を持つことが輝かしく、いつもポジティブでいなければならない。

そういう風に、社会的に勘違いさせられている。

良いものと悪いものが、なんとなく、しかし確実にあって、豊かさこそ幸せで、それを勝ち取るゲーム的な様相がこの社会の価値観だ。

勝つことや競うこと、夢を叶えたり成功や称賛が『自分の辞書にない』人は、世界の雰囲気に困惑する。

いったいそれ以外にどう生きればいいのか、指針がない。

だって、上を目指すしかレールが敷かれておらず、テレビでは、恋人と家族と家と車と仕事のコマーシャルばかりだ。
それに『乗る必要性が分からない』時点で、貧困、負け組、不幸、寂しい人生だと、子供にも認識できるからだ。

やる気がないのではない。
やる必要性が分からないのだ。

そんな社会で自分は幸せになる気がしないので、20歳までで充分だと感じるのだろう。

いまの若い人たちは、そういう感覚の人が多いとおもう。

だから、資本主義社会は、今後ゆっくりと崩れるとおもう。

下の娘は、なんだかんだ言いつつ20歳を越えても生きて、社会のヒエラルキーの内部でかろうじて(笑)働きながら猫と暮らしている。

生き辛いながらも、無茶苦茶忙しいと愚痴りながらも頑張っているので、のんちゃんは偉いなーっていつも伝えている。

みんな、偉い!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?