よくあること。でも、あっちゃいけないこと。

少し間が空いてしまいました。

最近の話ですが、小さなお子さんを連れた若いご両親が、ちょっと眉をひそめるように私の耳に着けている補聴器を見ていました。視線を感じたのでそちらを向くと、明らかに嫌そうな顔。私を避けるようにそそくさと場所を離れて行きました。

子供の頃からよくある出来事です。面と向かって「つんぼが移るから私に触るな!」と大人から怒鳴られたこともありました。「親不孝をするから、つんぼになるんだ。信仰すれば聴こえるようになる。」などと、胡散臭さたっぷりな話を持ちかける人達もいました。

今だから考えるのですが、幼い頃から身近に障害を持つ、体が弱い人がいるなど、そうした環境がないから分からないと切り捨てる前に、『想像力を働かせて言葉や行動に移す』ことなら出来るはずでは?と。お勉強は確かに大事ですが、想像力を養う機会が必要だとも思うのです。

うっすらと戦後の色が残っていた昭和の頃と同じ経験を、平成も過ぎ21世紀にも馴染んでいる令和の時代に、親となったばかりの若い人から受けるとは思いもしませんでした。

ついでに言えば、昭和の子供時代には知らない大人から、小銭を握らされたことが数回あります。

「頑張りなさいよ」「くじけちゃだめよ」

初対面です。知らない大人です。私が補聴器を着けているだけで、施しを渡さなければと思う大人がいたのです。ラッキーと思いますか?

その当時は、道端で座り込んで空き缶を自分の前に置いて、施しをお願いする男の人がいました。身なりはお世辞にも綺麗とは言いがたく、ずっとお風呂に入れないんだな、洋服も着てるのしか持ってないんだな、と思う風貌です。その人たちが空き缶で受け取る小銭と、ほぼ同じ意味合いを持つ小銭を渡されるのです。『可哀想な人』と憐れみを受けるということは、決してラッキーではないことを幼いながらに感じ取ってしまうのです。悔しいとも情けないとも言い得ない、モヤモヤした気持ちを抱えてランドセルを背負って歩いていました。

そんなことを思い出す、先日の出来事でした。施しや憐れみは必要ないけれど、眉をひそめてこちらを見る必要もありません。

私も、人です。豊かな人生経験を持っています。誰一人として、人生の経験が被らないのと同様に、私も生きてきましたし生きていくのだと思います。(いつまでかは分からないけど)

せめて、お互いにパーソナルスペースを脅かすのではなく、心地好くしていけたらと思います。

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