判決が下されて思うこと

被告人の名前も顔写真を目にするのも辛いのですが…

判決が下りました。

だけど、これで一件落着ではありません。乱暴な表現ですが、彼は自分のしたことに真摯に目を向けず、その場から逃げ出したように見えるのです。何も解決していません。

そう感じた理由は、上記のリンクに少し滲んで見えたので、貼らせて頂きました。

『戦地に赴けない障害者は役に立たない。』それはドイツだけではなく、日本にも根付いた考え方です。そして、現在では『戦地』が『社会生活』に換えられた形で、障害を持つ人のことを見ている人達がいます。戦争が終わっても、人を見下す形が残っている。それが綿々と繋がって、今回の事件に至ったのではないかと思っています。

事件と無関係とは到底思うことが出来ず、人に会うのが怖くなっています。私の障害は一見では分かりません。それは、相手の考えてることが、一見では分からないのと大差ないと思います。笑顔で対面していても、背中を向けた途端に表情を変えられてしまう。そんな経験は誰にでもあると思います。だけど、もし表情を変えるだけでなく、殺意を行動に移されてしまうとしたら?

臆病に生きてしまうばかりでは、辛いだけです。現在、新型コロナ流行の中で、正確且つ早く情報を得るのも難しいです。世界のニュースを動画で見ていると、手話通訳者も一緒に画面に映って、手話を使う聴覚障害を持つ人にも情報を届けています。でも、日本は?

些細な差別は意識的ではなくても、誰の心にもあります。私にも、もちろん。それに気付いて理性でコントロール出来るかどうか、間違いに気付いたときに相手に謝れるかどうか、改められるかどうか。『行動と言葉(思い)の一致』で表現していくしか、差別を取り払えないのかな、と思います。

今回の事件は忘れません。

今後、本当の意味で、グローバルな社会に変えていくためにも。孤立は人を過ちへと向かわせることがあります。孤立させないためにも、理解し合える社会に変わりますように。


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