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ラテンの街かど#1.物語のプロローグとエピローグの街〜リスボン〜

リスボンの夜(by たくや)

子どもの頃から、ラテンの国々への漠然とした憧れがあった。大人になってからようやく、ラテンアメリカやラテンヨーロッパのいくつかの都市を巡ることができた。それぞれの都市で見た風景や、そこで感じたこと・考えたことを不定期で書いて/描いていこうと思う。

昨年の秋、初めてポルトガルのリスボンを訪れた。いわゆる観光エリアである旧市街地には、空港から地下鉄で1時間足らずで行くことができる。湿度も低く、街を歩くには気持ちの良い温暖な気候だった。道には石畳が敷き詰められ、古いけれどもカラフルで可愛らしい建築物が並ぶ。壁面などには「アズレージョ」と呼ばれる青を基調とした独特の装飾タイルが用いられている。まるで絵本の中に飛び込んだような風景だが、ただキラキラしているわけではなく、どこか哀愁も漂う。坂の上と下をつなぐ黄色いトラムにひょいっと乗り込めば、何か素敵な物語がはじまりそうな予感がする(大のおとなが言うのもあれだが)。

10月のリスボンは日の出が7時台、日の入りが19時台と、日本に比べて遅い時刻だ。夜明けが遅いのは少し違和感があったが、その分日が暮れるのが遅く、出歩ける時間が長く感じられて観光するには悪くない。街にはオープンカフェ形式の飲食店が非常に多く、昼間から夜遅くまで酒や食事を楽しむことができる。目抜き通りの両サイドにはテーブルが設けられており、1杯やりながら食事を楽しむには最高の雰囲気だ(真冬はどうなるか気になるが…)。ふかしたジャガイモにタラを混ぜ込み、ラグビーボール状にして揚げたパシュテイシュは、やや小さめのコロッケといった感じ。ビールにも合うし、チーズなんかを入れて新大久保あたりで売り出したらちょっと流行るのではないかな。これに限らず、日本食を食べ慣れている人にとって、ポルトガル料理はまったく違和感なく食べられるものが多い。イワシやタコなど馴染みのある魚介類が多いし、飾らない素朴な料理が多く、さらに(イギリスなどではいっさい出会うことのない)“ダシ”的なものを感じるのだ。私は帰国後もポルトガル料理屋巡りをするくらいには気に入ってしまった。ちなみにリスボンの街を歩いていると、いたるところで干しダラ独特の香りが漂ってくる。率直に言うとちょっとクサいのだが、それもまた味わい深い。そういう、おしゃれすぎない感じが妙に良いのだ。人々も優しく、親切だ。

ただし注意すべきなのが、フォトジェニックな石畳の道はたいてい歩きにくいものだということ。海岸から小高い丘陵にかけて斜面上にできた街なので、アップダウンが激しく、まちあるきするにはなかなかハードだ。足腰が弱いと大変な思いをするだろうし、ヒールの靴はぜったいにおススメしない。ベビーカーや車椅子ユーザーの方は、坂道ではトラムを利用した方が良さそうだ。その点では、リスボンの直前に滞在したスペインのバルセロナの方が、歩車分離も進んでいて「ウォーカブル」な街だった(一方で大気汚染の問題は深刻で、空気は良くなかった)。それから主要な観光地の場合、バルセロナでは完全予約制かつインターネットでの事前決済が当たり前で、行き当たりばったりの旅行には向かない。なんとも味気ない感じもするが、オーバーツーリズム対策といったところだろう。対してリスボンないしポルトガルでは、そこまで観光客が多くないこともあってか、なんともシステムが洗練されていない。ネットや旅行誌による情報とじゃっかん現場の運用とで違いがあるなど、このテキトーな感じはラテンアメリカを訪れたときの印象に近い。とはいえ治安はずいぶん良いので、その点は安心だ。

ラテン特有の人々の陽気さや気やすさ、牧歌的な街の雰囲気はなんともいえない魅力がある。一方で、数十年前まで独裁や圧政に苦しんできた歴史があるということも、ラテンの国々の多くに共通している点といえるだろう。ポルトガルでもサラザールらによる権威主義的な独裁政権「エスタド・ノヴォ」が1974年まで続いた。ちょうど50年前だから、まだまだそれを経験した人は存命中だ。映画『リスボンに誘われて』はスイスに住む古典教師の男性が1冊の本との出会い、衝動的にリスボン行きの夜行列車に乗り込むところから物語が始まる。やがて彼が旅先で出会った人々との交流のなかで、エスタド・ノヴォ時代に反体制運動にかかわった若者たちの物語が明かされていく。数十年経ったあとでも、独裁や圧政がもたらした暗い影は、なかなか消えないものなのだ。かつてような苦しみや恐怖を二度と繰り返さないために、市民の自治的な取り組みや都市レベルでの民主主義を希求する動きが盛んなことも、ラテンの国々にみられる共通点かもしれない。市民の自治は、国家などの都合によって容易に力をくじかれてしまう弱さもあるが、一方で土着的で草の根の確かな力強さもあり、そこに希望があるのだと思う。

さて、旧市街のほかに、ジェロニモス修道院などが有名なベレン地区、それからイスラームの影響を色濃く受ける宮殿など地域一帯が世界遺産となっているシントラを巡り、充実したポルトガルの旅も終わりを迎える。…という予定だったが、実は航空会社の過失で数日延泊することになった(このトラブルは話せば長くなるので、それはまた機会を改めよう…)。それまでにおおむね有名な観光スポットは行ってしまっていたから、せっかくなので延長された期間にマニアックなところへ行ってみることにした。そうして訪れたうちのひとつが、地理学社会博物館である。中世〜近代に至る大航海時代;ポルトガルが栄華を誇った時代に焦点を当て、アフリカやアジアに領有した植民地に関する貴重な資料を展示している。入場料は確か5ユーロほどだったが、とにかく客がいないこともあり、学芸員が付きっきりで解説しながら館内を案内してくれる。教科書で見るような古い海洋地図や最初期の地球儀などのほか、植民地となった地域の文化財も展示されている。アズレージョが中国などアジアに見られる陶磁器に似た特徴を持つのは、おそらく文化的混合の影響があるのだろう。それからかつてインドで用いられていたサンスクリット語について、日本の墓地の卒塔婆に用いられていることを学芸員に伝えると、たいそう驚いていた。

ガイドブックなどにはほとんど載っていない博物館だったが、思いのほかためになった。ネットの口コミで妙に高評価が多いのも頷ける。ただ、口コミの中には植民地主義時代のビジョンを現代的な解釈なしに展示している、という批判的な意見もあった。確かに館内にあまり詳しい説明書きなどはなかったように思う(というかポルトガル語の表記しかなかったので、詳しい内容はわからないのだが)。学芸員との会話の中でも、お互い母語ではない英語でのやりとりということもあって、そこまでの内容については話すことができなかった。ただ、ポルトガル社会ではかつての植民地主義時代のことをどう捉えられているのか、今思えば肌感覚のようなものを聞いてみるべきだったかもしれない(翻って、日本社会では近代における植民地主義の歴史がどう捉えられているだろうか)。

ポルトガルが500年前のように世界の覇権を握るということは、この先おそらく二度とないだろう。ヨーロッパの中でも経済停滞著しく(それゆえ円安に喘ぐ私たちでもまだギリギリ手が届く旅行先なのだが)、いま以上に発展しそうな気配は正直言ってまったく感じられない。現在のポルトガルは、栄華を誇った王国の物語で言えば、最終回のその後を描いた後日譚なのだ(なんて勝手に、失礼な言い方かしら)。でもそれは、なにも絶望を意味するわけではないと思う。ある種の諦観みたいなものを内包しつつ、しかし美しい街並みを大事に手入れしていく。洗練されていなくても、人々の優しさや気やすさを大切にする。それはそれで素晴らしいじゃないか。それはある意味で脱成長的なあり方として、日本あるいは東京に必要なことなんじゃないか。東京にもいろいろと素晴らしい文化的景観や保全すべき環境があるのだから、色気を出してゴリゴリのビルなんか建てる必要があるのかな。「東京を世界一の都市に!」なんて、間抜けなことを言わずに、ほどほどにすれば良いのに、と思うのだ。どうせ日本がこの先世界の覇権を握ることなんてないんだから、気楽にやろうぜ。

物語の始まりを思わせる「プロローグ」と、後日譚的・脱成長的な諦観と気楽さを思わせる「エピローグ」が同居する街リスボンは、日本あるいは東京がめざすべき、ある意味では未来像と言えるのではないかなあ。

おしまい

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