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「公園とホームレス」から、これからの都市の空間を考える(4)

公園とホームレスの関係からこれからの都市空間を考える全4回シリーズの最終回です。前回の記事では、公共空間たる都市公園について、新たな評価軸として「社会問題を解決するための空間になっているか」ということを提案しました。では、そのような実践を可能にするには、僕たち市民はどのような態度で公共空間を考えたらよいでしょうか。

ルフェーブルの宿題ー「脱中心化」と「転用」を考える

さて、いきなり硬い話で恐縮ですが…。公共空間に対して僕たち市民がとるべき態度ーこれを、ルフェーブルからの宿題(以前の記事で触れましたね)になっているキーワード、「脱中心化」と「転用」をもう少し具体的に考えることで、そのヒントを得たいと思います。(注1)

「脱中心化」―その空間に包摂できるものとできないものとを分け、排除することで空間を均質にしようとする圧力に対し、その圧力を緩め、「底からの自治(自主管理)を組織化していくこと」とあります。
これはまさに、市民によるコミットメントをつくり出していくことに他なりません。大小のデモクラシーを、公共空間を舞台に実践していくことです。社会問題を解決する空間にするという考えは、管理者やデザイナーだけでなく、市民も公共空間をそのように捉え、積極的に実践していくことが求められます。

それから、「転用」―ルフェーブルはこのために「多様な集団の潜在的エネルギーは空間を演劇化しドラマ化する。」と述べており、篠原(2007)は以下のようにまとめています。

転用は、均質化された空間に対し真っ向から抵抗を試みてその完全なる崩壊を目的とするのではなく(中略)、その内部にとどまりながらそこへと包摂されることなく、均質的な状態を最適なものへと転化させていこうという実践ということになる。(「公共空間の政治理論」より)

この具体的なイメージは難しいですね。アートのように人間の心に触れ突き動かすような装置が必要になるかもしれない。しかし、一方でアートは、ジェントリフィケーションや公共空間のプライベート空間化を覆い隠す隠れ蓑や呼び水になる場合もあるのです…。
いずれにせよ、空間の論理に取り込まれるか否かのせめぎ合いの中で、自らの意志を突き通すことができる、そんな力が必要になってくるのではないでしょうか。そこには、アートや自然や感情の表現など、多様で本能に訴えかけるものがエネルギーになるかもしれないですね。

さて、ぼんやりとではあれ、「公共性の担保」を超えて、公共空間が果たすべき重要なポイントが何なのかーそのヒントのようなものが見えてきました。どうやら僕たちは、もう長い間、公共というものを自分から切り離し、空間に対してどのようにコミットするかということを、すっかり忘れてしまっているのかもしれません。

LAのパルケ・ナトュラル


さて、ずいぶん抽象的な話を続けてしまったので、ちょっと辛かった方もいるかもしれません。最後に、極めて具体的な事例をご紹介することにしましょう 。これは、尊敬するコミュニティ・デザイナーのランディ・ヘスター先生の実践です。(注2)

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僕はこの事例―米国ロサンゼルス市のサウスセントラルにあるオーガスタ・F・ホーキンズ自然公園の現場を実際に訪れ、ランディ先生に案内していただくという幸運を得ました。本当に素晴らしい公園でした。LA南部の工業地帯の中にある180m四方ほどの公園は、自然公園というほどの広さではないのですが多様な表情を見せてくれます。ウップダウンあり、豊かな植生あり、広場もあり、とても楽しい。でももちろん、それだけではありません。

その公園―通称パルケ・ナトゥラル(スペイン語で自然公園の意)の周囲は、ワッツ暴動やロドニー・キング事件を想起させる、アメリカの荒廃したゲットーのイメージそのまま、あまり治安がいいとは思えないエリアです。旅行者がひとりで歩くには結構怖く感じます。住民の3分の1は貧困ラインを下回り、失業者も多く、またスペイン語話者やマイノリティの人々も多く住んでいます。そのような地域の真ん中に、実に美しい楽園のような自然公園が存在していることに、初めて訪れた人は非常に場違いな印象を持つに違いありません。

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元々水道局の廃品置き場だった土地が公園用地となり、どのような用途が求められているか、コミュニティの代表者への調査が始まりました。当初は難航したものの、ランディたちは提案をもって地元のスーパーで直接住民たちに説明を始め、次第にコミュニケーションが取れるようになっていきます。そこで分かったことは、多くの住民が皆、安全性に対して懸念を抱いているということでした。住民たちはギャングの抗争の場になることを恐れ、警備員が常駐することを望みました(しかし通常この程度の規模の公園ではそのようなことはできない)。

話し合いの末、この公園のデザインは自然豊かなものにすることとなりました。この貧しい地域の人々は、L Aの広大で豊かな自然を享受する機会がほとんどなかったのです。最終的には地元の若いギャングたちもその案に賛成しました。

デザインは真ん中に広場を持ち、それを囲むように丘を配置しました。プラタナスの散歩道(パセオ)や池、それからメキシコ風の広場(ソカロ)を囲むようなコミュニティセンター、色タイルを用いた小さな野外円形劇場など、様々なギミックが住民の意見とともに取り入れられました。周囲を囲む柵には地元の芸術家がつくった鉄線による作品が埋め込まれました。

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公園建設には五十人以上の地元住民の雇用を生みました。そのようにして徹底的に多様な住民を公園建設プロセスに巻き込み、地元の若者たちは自分たちのオリジナルという意味の「o.g.」という愛称で呼ぶようにもなりました。これまで、地元のギャングも、公園を利用しこそすれそこで喧嘩をしたことはないということです。

住民たちの懸案だった安全性にも配慮がなされました。通常大規模な自然公園には、パーク・レンジャーという職員がいて24時間の管理―主に密猟や不法伐採を防ぐ活動をしています。実はこの公園にもその制度を援用し、警備員を配置しているのです。既存の仕組みをうまく転用したアイデアです(だから工業地の真ん中にあっても自然公園という名前なのかもしれません)。

それから、これは全く嘘の自然というわけでもありません。この公園内の丘の盛り土は、10kmほどの距離にあるサンタモニカ・マウンテンで地滑りが起きた際の土を運んできたものです。これは一石二鳥で、土の片付けができたばかりか公園のコストも抑えることができました。そして、公園内の植生は乾燥した地帯特有の自生植物を採用しています。このエピソードから、「サンタモニカ・マウンテンが動いた!」と表現されています。

皆でつくったこの公園は、暴動の傷跡が残る荒れた地域の「解毒剤」となっているといいます。ランディはこれが、公園(の自然)が持つ、人々を回復させる力によるものだと言っています。人々の参加によってつくられ、また人々を癒す自然の享受が可能になったことは、この地域に大きな影響をもたらしました。地元住民の代表者は、自然公園ができてからコミュニティ全体が変わりつつあり、「もっと自分たちのコミュニティの世話をするようになるだろう」と述べているということです。

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失われた「空間感」の獲得とコミットメント

パルケ・ナトゥラルはデザイン段階から住民のコミットメントを促し(ギャングも参加した!)、自然の力を用いることで人々の心を動かし、安らぎを与え、かけがえのない公共空間の創出に成功しました。僕たちが視察に行った時、たまたま散歩に来ていた地元のおばあさん(スペイン語話者だった)も、ここが本当に大切な場所なのだということを話してくれました(まるで旅番組とかのヤラセみたいですが、本当です)。

このような、皆が大切だと思い、愛着を持っている場所、お金には変えられない価値を持った場所のことを、ランディは「sacred place」と言います。翻訳版では「聖なる場所」です(注3)。日本語で「聖なる」という言葉はどうしても宗教的なイメージがついてしまいますが、必ずしもそういう意味だけではないようです。人々が愛着を持ち、大切だと思っている場所、というような意味だと理解しています。このような場所について、ランディはこう言います (注4)。

外的な力を避難するのは簡単だが、問題は消費や地位、個人的な快適さや移動のしやすさを無思慮に追い求めるといった個人的な選択に起因しており、それらは私たちが身近な場所についてよく知ることで英気を養い健康を保つことを阻害し得るのだ。私たちが自分の住処や地域への深い愛着を持てないということは、コミュニティと民主主義の基盤そのものを危険に晒すことになる。(中略)「sacred place(聖なる場所)」は、人々が日常生活の中で、平凡なことに感動し、最も深い価値観に従って生きることを可能にするために重要なのです。私たちは、意図してこのように住まう行為を「inhabiting the sacred(聖性の中に住まう)」と呼んでいます。(「INHABITING THE SACRED IN EVERYDAY LIFE」より。訳文は北畠による)


僕たちは、「公共」と名のつくものはあくまで行政が管理するものであって、自分たちとは一線を画すものであると思ってしまっているのではないでしょうか。「お上」が管理してこちらが使わせていただく、というような。
でも、そうではないコミットメントの仕方があるのではないか、そういう可能性を探ってみたくなるのです。ルフェーブルのアイデアー「脱中心化」や「転用」にイメージを与えるならば、それは例えばとても小さな実践でも良い。DIYが流行っていますが、公共空間に関しても、僕たちはもっと自由な創造的イメージを膨らませ、手を動かし汗をかくことができるのではないか。現代の人々が失った「空間感―空間にコミットする感覚」ともいうべきものを獲得することが、必要なのではないかと思います。

こうした能動的な小さな実践(の可能性)があるということは、「公共性の担保」という無表情な言葉を超えて、人々がコミットできること(「脱中心化」を推し進める)、大切に思ったり心を突き動かす場所で活動すること(「転用」を推し進める)、そして社会問題を解決する空間を創造するために必要なのです。
逆に言えば、(とても当たり前のことなのですが)僕たちが公共空間を舞台に小さな実践を繰り広げ重ねていくこと、それらを通して出会いや衝突も経験しながら、人々にとって大切な空間を創っていくことが、市場的価値だけでその場所の価値が図られることへの対抗になるのではないでしょうか。そしてその可能性は、シドニーやLAの実践に、見出すことができると僕は確信し、そのような実践を展開したいと思っているところなのです。(了)

最後までお読みくださりありがとうございました。よろしければぜひご感想や考えたことを教えてくださいね。北畠拓也

(注釈)

(注1) 公共空間論の整理にあたって、以下の文献を参照した。
・公共空間の政治理論 篠原雅武 (2007)人文書院
・都市への権利 アンリ・ルフェーヴル 森本和夫 訳ちくま学芸文庫
・空間の生産 (社会学の思想) アンリ・ルフェーヴル 斎藤日出治 訳 青木書店

(注2) LAの自然公園の事例は以下の文献を参照した。
・エコロジカル・デモクラシー:まちづくりと生態的多様性をつなぐデザイン ランドルフ・T・ヘスター 著 土肥真人 訳(2018)鹿島出版会

(注3) 上記、土肥(2018)による翻訳を参照した。

(注4)以下の文献より引用し、北畠翻が翻訳した。(正式な訳ではないので御留意を。)
・INHABITING THE SACRED IN EVERYDAY LIFE Randolph T. Hester,jr /Amber D.Nelson George F. Thompson Publishing


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