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「公園とホームレス」から、これからの都市の空間を考える(1)

デモクラティック・デザイナーの北畠拓也です。
これまで主にホームレス問題について「住まい」という観点から見てきました。今回は少し趣向を変えて、「公共空間」という観点;中でも「都市公園」という観点から考えてみようと思います。今回は事例をいろいろご紹介したいと思います。(全4回)

「都市公園」から考える

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みなさん4~5月の緊急事態宣言発令中は思うような活動ができない日々だったと思います。ずっと家に閉じこもっていると気が滅入りますし、かといって遠くに行くこともできないので、近所の河川敷を散歩したりジョギングしたり、公園で子供を遊ばせたり…という方が多いのではないでしょうか。

これまで、あまり公共空間(公園や河川敷など)を身近に感じることがなかった方も、このコロナ禍においてその存在を意識されたという方もいることでしょう。現在もなるべく外出は控えるべきというような風潮ですが、もう少し世の中が落ち着いてくれば、こうした屋外の広い公共空間で活動することはむしろ推奨されていくようになっていくでしょう。そこで改めて、僕たちが住む都市にとって、公共空間ってどんな存在なのかを考えてみたいと思います。

私は、今後の日本では市民が党派性を越えてもっと政治や社会にコミットできるようになるのが望ましいと考えていますが、その際公共空間が果たす役割は大きいものだと思っています。そういったことについても論じてみたいと思います。また、公共空間というのはかなり広い概念なので、この記事ではみなさんがイメージしやすい「都市公園」を主な対象とすることにします。

「都市公園」とは?


日本の「公園」には大きく2つの種類があります。大規模な自然公園などを含む地域制公園と、都市公園などを含む造営物公園です。そして僕たちが住む街にあるような、近所の身近な公園は大抵が都市計画的に「都市公園」と分類されるものです。

公園を設置する目的は、例えば「人々のレクリエーションの空間、良好な都市景観の形成、都市環境の改善、都市の防災性の向上、生物多様性の確保、豊かな地域づくりに資する交流の空間の提供」(注1)とあり 、実に様々な役割を期待されています。また、防災公園のように、災害時の一時的な避難場所としてや、救助活動の拠点にするための機能なども近年では重要視されていますね。

誰でも使える空間として、都市の中ではとても重要な空間なのです。とはいえ、好き勝手に使っていいというわけではありません。みんなが気持ちよく使えるように「公共性を担保」する必要もあり、ここに難しい問題が生じることがあります。

都市公園の歴史を少しだけ紐解くと、長らく公共によって管理されてきたのですが、その中でどんどん規制が厳しくなっていきました。それでは誰も寄り付かない、ということで1990年代から民間の力を活用しながら公園に賑わいを創出しよう、という政策が取られるようになりました。人を集め、稼げる公園にしようという大きな潮流が見られます。

そして、ホームレス状態の人々は、こうした公園を起居の場としていることがあります。他に行く場所がなく、公園にたどり着いたわけですが、ここが時にコンフリクト(衝突)の舞台になることがあります。

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新国立競技場建設にかかる明治公園廃止とホームレスを巡るコンフリクト

コロナ禍で延期となった東京五輪・パラ五輪。五輪開催に伴い新設された新国立競技場があるのは、明治公園の跡地です。デザイン変更や現場職員の過労死、都営アパートの取り壊しなど多くの問題とともに建設された新国立競技場では、実は都市公園とホームレスを巡る問題も発生していたのです 。(注2)

明治公園は元々、前回の東京五輪の際に開園した都市公園で、周囲には旧国立競技場や神宮球場などが位置しています。フリーマーケットが開催されたり、あるいは大規模なデモや集会の舞台にもなりました。近年では2011年に反原発集会に6万人が集まったとされています。(写真はTOKYOおでかけガイドより。http://park.tachikawaonline.jp/park/10_meiji.htm)

明治公園

新国立競技場の建設にあたっては、この明治公園の一部を「廃止」する形で進められることになりました。その際、明治公園を起居の場としていたホームレス状態の人々に対する対応をめぐり、大きなコンフリクトが生じました。支援団体による記録によれば、五輪誘致が決定した2013年10月頃から文書による立ち退きの働きかけが始まります。翌年にはJ S C(独立行政法人・日本スポーツ振興センター)と当事者団体・ホームレス支援団体間の交渉により、強制排除はせず、話し合いで解決する旨合意がなされたということです。支援団体や区の働きにより公的支援に繋がった人もいる一方で、様々な事情からその場からすぐに生活の場を移すことができない人々もいました。しかしその後何度かの荷物等の撤去要請の末、2016年1月には公園の封鎖、4月には仮処分決定後、強制排除に至り、支援者が逮捕されることとなりました。

このような強制的な排除については、過去に裁判で違法判決が出た例もあります。また、五輪に際するホームレス排除は過去の開催都市で幾度も生じており、その度に国際的に問題視されてきました。今回の件もまずは強制退去に至ったということそれ自体に問題があると考えられます。
法的拘束力は無いものの、社会権利規約一般的意見の第4・第7では居住権及び強制退去について述べており、たとえ法に則った強制退去であっても影響を受ける人との真正な協議や十分な代替居住地の確保を求めています。さらに今回のプロセスでは、行政権行使において都市計画上の瑕疵があったと考えられます。

前述の公園を事実上封鎖した主体であるJ S Cは、明治公園のうち一部廃止された敷地を東京都から無償譲渡されています。そもそも都市公園を廃止するというのはかなり大変なことで、基本的には安易に廃止してはいけないものなんです。明治公園もそうですが、本来都市計画決定された都市公園を廃止するには都市計画審議会に諮る必要があり、また代替となるものを確保するなど十分配慮する必要があります。しかし、今回の敷地の一部は都市計画審議会による議論を経ずにいきなり廃止が告示され、その敷地が前述のJ S Cへとポーンと無償譲渡されていたわけです。この間、都市公園という極めて公共性の高いものに対し、議論や公的な第三者によるチェックは全くと言っていいほどなされていません。(他にも都市計画上の問題点が指摘されています。詳細は参考文献を参照ください。)

もちろん、公園で居住するということ自体を推奨すべきではありません。しかし、様々な権利性において弱い立場であるホームレスの人々に対しては、冷静かつ人道的な対応が求められるでしょう。東京五輪という国際的な大規模イベントを前に、今回の行政対応はいわばその熱病によって、都市計画上極めて重要なプロセスを無視しながら強行的な対応に突き進んだということです。

(ちょっと飛躍して、)都市空間が辿る運命を考える


さて、ここでもう少し大きな文脈で都市空間の辿る運命を考えてみることにしましょう。小難しい話になってしまうのですが、前提として重要な話なので触れておきたいと思います。現在の新自由主義が隅々まで行き渡った世界;つまり空間が商品化した世界で、都市の空間がどのように振る舞うのかを考えてみましょう 。(注3)
キーワードを2つ挙げるとすれば、①ジェントリフィケーション②公共空間のプライベート空間化:より激しく言えば、公共空間の消滅、だと僕は考えています。

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まず①ジェントリフィケーションとは、都市中心部が高級化していくプロセスです。ざっくりと言うと、例えばアメリカでは都市中心部(ダウンタウン)には一定数貧困層が暮らす地域があったわけですが、巨大なグローバル資本が投下され、新たなビル建設や都市再開発が進むことによって都市全体が高級化し、貧困層が外に追いやられていくという過程です。これをスミスは新しい形の階級闘争であると言っています。そしてこの現象は少なからず東京でも見られ、オリンピック開催に向けてその勢いは増していたはずです。

その際、これまで価値が低かったと思われる空間を、何らかの作用によって全く新しい価値を持った空間へと変化させることになるのですが、こうした作用のことを、リッツァは「再魔術化」と呼んでいます。魔法のような=マジカルな方法でそれまでと全く別の空間に作り替えることによって、まるでファンタジーな遊園地や綺麗で洗練されたショッピングモールのような空間-ファンタジースケープを作るのです。これは、その空間とそれまでの歴史的な蓄積とを一切切り離すような手法でもあります。まぁこの話は、別の機会に詳しく話すことにしましょう。

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今回のテーマである②公共空間においては、先に述べた民間活力の投入などにより、遊園地やショッピングモールのようなプライベート空間化が進んでいます。この際にも、上記のような再魔術化;マジカルな方法で空間を全く新しいものに変えます。公共空間が綺麗で洗練されたプライベート空間のようになった結果、一方で気安く利用しづらい、なんとなくフォーマルな雰囲気になることがあります。ちょっとあんまりだらしない格好では行きにくいな、みたいな感じです。そういう空間再編による効果は治安の面などで評価されるわけですが、同時にある種の人々には利用しづらくさせる可能性がある。まして同調圧力の強い日本ですから、綺麗な格好していないと公園にも行けないよ、ということです。もちろん他人に迷惑をかけるような行為はすべきではなく、規制の対象になるべきなのですが、一見すると「行為」の規制が実はある特定のグループの排除を意図した規制につながる可能性を孕むことがあるわけです。

もちろん、公園行政の課題に対して、民間の力を投入して(再)活性化すると言う試み自体が間違っているとは言えません。現に賑わいが創出され、社会資源としての価値が上昇することがあります。しかし、公共空間についても市場的価値(だけ)が問われるようになることは歓迎すべきことでしょうか。これは、公共空間の存在そのものを問う、重要な問題です。公共空間を市場的価値の高い空間につくりかえる際に、見過ごしてしまう観点があるように思います。これについて、具体的な例を見ていきましょう。(2)へ続く。

◆注釈と参考文献

(注1)国土交通省関東地方整備局H Pよりhttps://www.ktr.mlit.go.jp/city_park/machi/city_park_machi00000005.html

(注2)明治公園を巡る動きについては、以下の文献を参照している。
・「社会と自然の結節点としての公園」というビジョン――東京五輪・パラ五輪を巡るふたつの動き 土肥真人/杉田早苗/河西奈緒/北畠拓也(2016)都市問題 第107巻 第12号

・二〇二〇東京五輪 新国立競技場予定地・明治公園での野宿者強制排除と抵抗の記録 R 寄せ場No.18 2016年7月25日
・オリンピック追い出しヤメロ 国立競技場周辺で暮らす野宿生活者を応援する有志(https://noolympicevict.wixsite.com/index#!blog/u1ok7)

(注3)ジェントリフィケーションについては以下の文献を参照した。
・ジェントリフィケーションと報復都市 新たなる都市のフロンティア ニール・スミス 著/原口 剛 訳 ミネルヴァ書房
また、再魔術化による解釈については以下の文献を参照した。
・再魔術化する都市の社会学 空間概念・公共性・消費主義 園部 雅久 著 ミネルヴァ書房

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