チキンラーメン考

 私の母親はとんでもないことをしてくれていた、とつくづく思う。400mlのお湯が沸くまでの数分間、いつも憤りを感じる。母親といえど、子供に味覚を押し付けてはいけない。まったく、貴重な子供時代を、この味を知らずに過ごすことになるなんて。
 昔は、真ん中の窪みはなかった。憧れが強かったので、よく覚えている。窪みができたのは、ちょうど私が中学生の頃だった。窪みに生卵を慎重に割り入れる頃、お湯が沸く。私は、ゆっくりゆっくり、お湯を卵の白身に丸を描くようにかける。ここでどれだけゆっくり時間をかけられるかで、出来上がりがまったく違う。ゆっくりお湯をかけられた白身は、白く固まり、パッケージの写真に近しいものになる。
 子供の頃、私はよく母親にチキンラーメンが食べたいとねだった。特にインスタントラーメンを禁じられていたわけではない。チキンラーメンだけが禁じられていたのだ。
 また、同じく日清カップヌードルも、シーフード味のみストックされ、私の一番好きな醤油はほとんど買ってくれたことがなかった。
 「飽きるから」、と母親は言い、私の要望は聞き入れられることはなかった。飽きるから。それは母親の一方的な主観の押し付けでしかない。ただ、絶対的な決定権を持っている母親にそう言われると、そうか、と受け入れざるを得なかった。
 一人暮らしを始め、ようやく自分の好きなものを好きなように食べられるようになっても、なかなかチキンラーメンに手が伸びなかった。「飽きるから」、この台詞がいつも頭の中に蘇った。きっと、これは母親の呪いなのだ。
 小学生の頃、土曜日の午前だけの授業、家に帰り、チキンラーメンをすする。そして大人になりチキンラーメンをすすりながら、その頃を思い出し、ノスタルジーに浸る。私にとってチキンラーメンとは、そうあるべき食べ物だった。
 お湯を注いだチキンラーメンは、麺からじわじわと味が染み出し、お湯を茶色に染めていく。私は、表面に浮いている砕けた麺をひとつ、箸でつまんで口にいれる。まだふやけていない麺は、ぽり、と音をたてた。
 チキンラーメンは、インスタントラーメンの中ではとても自由なラーメンだと思う。麺自体に味がついていて、お湯をかけるだけで食べられる。お湯をかけなくても食べられる。味は少々濃いが、つまみにもなるし、その場にお湯がない場合でも食べるには特に問題がない。砕いて何かのトッピングに散らすこともできる。
 私はまだふやけ切っていない麺を無理やりほぐし、食べる。表面は少しやわらかくなっているが、芯はまだまだ固く、ぼりぼり音がする。三分待ってもいいし、待たなくてもいい。私はその三分を待たずに、まだスナックのような麺を食べるのが好きだった。私がチキンラーメンを食べ始めたのはほんの数年前だが、まるで昔から知っているような、独特の香りと旨味に、溜息をついた。あの、理想の土曜日の昼食の思い出が、本当にあったかのように。
 そして同時に、母親の「飽きるから」という台詞も思い出され、苦笑する。理想の土曜日は過ごすことができなかったが、大人になった私はチキンラーメンを食べ、あの母親の味覚の押し付けを思い出す。食べたいって言っているのだから、買ってくれてもよかったのに。私の中にいる小学生の私が、そう唇をとがらせている。
 しかし、大人になって、チキンラーメンを食べるだけでこうも色濃く子供の頃の記憶を呼び起こしてくれるなら、とても幸せなことだと思う。
 禁じられたチキンラーメン。今でも、母親に知れたら文句を言われるような、どこか悪いことをしているような気になってしまう。私は、味にも記憶にも、飽きないよ。まったくもう。

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