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どっちもどっちだよね、という気味悪さ

僕は、話し合え、議論をしろと言う場でこの言葉を言う奴が嫌いだ。場の設定が、どちらかを選べ、答えを出せ、と言っているのに議論を無に帰すような言葉を発するな。議論の場は、お前の倫理観を問うているのではない。どちらかを選べというのは、優を議論しているのであって、劣を名指ししてオトシメてやっているのではない。聞いているのはお前の判断だ。お前が否定したどうこうで誰も気にしちゃいない。ウジウジ立場をごまかすな。

どっちもどっち、という言葉はポジションを取らない言葉だ。どっちもどっち、という言葉を使う人間はポジションを取ることをしない。悪いが、その程度の判断から逃げて立場を濁すことでよいことなど一つもない。ポジションをとらない奴は自分の人生にもポジションをとれない。ポジションは責任と同義だから、ポジションをとらない奴は自分の人生にも無責任だ。

人生はポジションをとることの繰り返しだ。ポジションをとることを何度も繰り返すことで自分の価値観を固めていく。はっきり言うが、若い頃から自分の行く道を仮決めして挑戦することを繰り返しておかないと、何をやりたいのかわからないまま年老いていく。その先に待っているのは、「あれをやっておけばよかった」という言い様のない底無しの後悔だ。ポジションをとらなければ他人から与えられた空っぽのポジションにはまるハメになる。そこにあなたの判断も挑戦もない。ポジションをとらないのはクセになる。今ポジションをとらない奴は目の前の判断もとらないばかりか、次も繰り返す。そうして自分の人生にポジションをとらないから、何となく人生が終わる。そういう奴は「○○をやれ」「○○をやるな」の二種類のメッセージの間で道を見失うし、他人のせいで自分はこうなったと言う。それはポジションをとらないお前のせいだ。他人のポジションに座ることを選んだのはお前だ。
そういう人間になっていないか。

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