ロング_NOTE

ロングボーダーの憂鬱 5 Wish You Were Here 2/3

 そういって梨沙は軽く頭を下げた。
「そうでしたか、それはわざわざどうも」
 ろくさんは昼間の電話を思い出しながら、梨沙の顔をじっと見つめた。
「美奈海の担任は確か……」
 そういってろくさんは首を傾げた。
「関口先生ですね。あの方、ご家庭のご事情があって辞められたんです。それでわたしが担任に。夏休み直前に赴任したので、ご父兄の方にはきちんとご挨拶ができてなくて、突然で申し訳ありませんでした」
「そうでしたか。いや、美奈海なら大丈夫です。ミリが、あ、館野さんが家まで送ってくれて、今日はそのまま面倒を見てくれています」
 ろくさんは頷いた。
「それならひと安心ですね。よかった」
 梨沙はそういうと席へ戻ろうとして、すぐに足を止めるとまたろくさんの方を見た。
「あの、失礼でなければ、館野さんとはどういうご関係で? 美奈海さんが頼りにしているようでしたので」
「あいつ、高校のときからの知り合いなんですよ。それで美奈海も慣れていて。おれが、あっ、ぼくがこんなだから、まぁ父親の役をちゃんとしていないというか、それであいつがいろいろと面倒見てくれたりしているので」
 ろくさんはなにか言い訳をするようにいった。
「そうでしたか」
 それだけいうと梨沙は席へ戻っていった。
 ビールを配り終わった真夏がカウンターに戻るとろくさんに尋ねてきた。
「誰なんですか、あの人」
「ああ、美奈海の担任だって」
「あっ、美奈海ちゃん、そういえば晩ご飯食べに来てないですよ」
 真夏が気がついたように口を開いた。
「大丈夫。具合が悪くて家で休んでる。ミリが面倒見てくれているから」
 ろくさんはそういって頷いた。
「ならOKですね。そっかー、学校の先生か。だから年齢もバラバラだし、服装もそれぞれ。どんなグループなんだろうって思っちゃいました」
 そういって真夏は肩を軽く竦めた。
「でも、担任の先生。綺麗な人ですね。ああいうのを美人っていうんだなぁ。髪もすっごい綺麗だし。羨ましい」
 真夏はそういってろくさんの顔を見た。
「美人か。なるほどね。そんなものかもね」
 ろくさんはぼんやりと梨沙たちのテーブルの方を見ながら呟くようにいった。
「もう、ろくさんたら。美人ですよ、あの人」
 そういうと真夏はつまみの用意をはじめた。
 ──美人っていうんじゃなくて、つい思い出すんだよな……。
 なにか気になるのかろくさんは梨沙の方を見たままグラスを拭き続けた。

 美奈海の部屋で一夜を過ごした美里は、起きると布団を片付けて美奈海が眠るベッドへと歩み寄った。タオルケットを顔にかかるぐらいまでずり上げて美奈海は眠っていた。そのタオルケットがゆっくりと上下している。
 ──だんだん似てきたなぁ、歩惟に……。
 美里はそう独りごちながら溜息をついた。
 窓にかかったカーテンが陽射しを遮ってはいたけど、しかしその陽射しの強さがはっきりとわかるようだった。
 美奈海の寝顔見ているうちになにかこみ上げてくるものがあって、美里はつい思わず手を伸ばしてその髪に触れた。
 その瞬間、美奈海が眼を開けた。
「ごめん、起こしちゃった?」
 美里がやさしく囁いた。
 美奈海は首を横に振ると、じっと美里の顔を見つめた。
 しばらく見つめられ続けた美里がそっと口を開いた。
「まだ気分悪い?」
 美奈海はただ大きく首を横に振った。
「どうかした?」
 美里は不思議そうに美奈海に尋ねた。
 美奈海はそのまま美里を見続けて、やがておずおずと口を開いた。
「こんなこと、いっていい?」
「なに? なんでもいってみて。遠慮なんかいらないから」
 美里が優しく語りかけると、美奈海は大きく頷いた。
「あのね……」
「どうしたの?」
「あのね、おかあさんがいたら、こんな気持ちになるのかなって。朝、眼が醒めて、なんだかとっても安心して起きられるんだって」
 美奈海はまっすぐ美里の眼を見つめた。
「美奈海ちゃん……」
 美里は思わず声を詰まらせて、どうしていいのか判らず、それでもそのまま思いっきり美奈海の身体をしっかりと抱きしめた。
「そうよ、きっとそうよ」
 ──歩惟なら、いつだってあなたをこうして優しく抱いてくれたはずよ。

 ふたりは向かい合ってダイニングテーブルに座ると朝食を食べはじめた。
「ご飯は、ろく?」
 美奈海が箸をつけながら訊いてきた。
「ご飯と味噌汁はろくさん。今日の目玉焼きはわたし」
 そういって美里は美奈海の顔をやさしく見つめた。
「この目玉焼き美味しい。やっぱりだれかに作ってもらうと違うなぁ」
「ありがとう。そういってもらえると嬉しいわ」
 美里は微笑みながらいった。
「それもこうやってだれかと一緒に食べると、もっと美味しい」
 美奈海は嬉しそうに笑った。
「ろくさんにいっておこうか。朝ご飯、一緒に食べたいって」
「いいよ。あいつには海しかないから」
 美奈海はそういって頷いた。
「今日は金曜日だっけ?」
 ふっと箸を止めて美奈海が訊いてきた。
「そうよ。どうかした?」
「学校……」
 美奈海はそういうとしばらく黙った。
「今日は休んじゃっていいのよ。体調が優れないなら」
 美里がいたわるようにいった。
「ううん、大丈夫。今日は遅刻なしでいけるよね、この時間だと」
 美奈海が心配そうにいった。
「大丈夫。間に合うはずよ、この時間なら」
「美里さん、ありがとう」
 美奈海は箸を置くと美里の顔をじっと見た。
「どういたしまして。ねぇ、わたしにできることがあったら遠慮なんかしなくていいからね。もっともっと甘えていいから」
 美里は起きたときの美奈海の言葉を思い出しながらいった。
「そういってくれる美里さん、大好き」
 美奈海はなんの衒いもなくそういった。
「じゃ、用意して出掛けなさい。もし学校でなにかあったらすぐに先生にいって、無理しないようにね」
 美里はすこし心配そうにいった。
「うん、わかった。いままでね、よく判んなかったの。気分が優れないって感じ。あれが、いまならよく判るから、きっと大丈夫。なにかあったら先生に相談する」
 それだけいうと美奈海は元気よく立ち上がった。食べ終わった茶碗やお椀、皿をキッチンの流しへ持っていく。
「美奈海ちゃん、わたしがやっておくから、今日はそのまま出かけなさい」
 美里の言葉に美奈海は大きく頷いた。
「ありがとう、じゃ用意してくる」
 そういって二階へ上がると、すぐにピンクのランドセルを背負って降りてきた。洗い物をしている美里の前にいき、にっこりと笑って口を開いた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 美里の言葉に大きく頷いて美奈海が口を開いた。
「だれかに、いってきますっていうのも、いってらっしゃいっていわれるのも、すごく嬉しい。いってくるね」
 そういって美奈海は元気よく家を出ていった。
 美里は笑顔で美奈海を送り出したものの、しかしなにか心がざわつくのを感じていた。美奈海の今朝の笑顔は、いままで見てきた彼女の笑顔とはなにかしら違って見えた。
 ──おかあさんがいたら……。
 その言葉が、その言葉が持つ意味が美里の心に微かなさざ波を立てたようだった。
 洗い物を終えた美里はリビングのソファに腰を下ろした。そこから窓越しに庭が見える。まだまだ夏の輝きを残した陽射しが広がる芝生を照らしていた。ウッドデッキに置かれた二脚のキャンプ用の折りたたみ椅子。
 ──もし、もしもよ。あそこにわたしの椅子を置くとしたら、どこに座ればいいのかしら。ううん、そもそもわたしの椅子を置いていいの?
 美里はじっと椅子を見つめながら、親友の、そしてろくさんの妻だった木崎歩惟の顔を思い出していた。
 ──歩惟、わたしどうしたらいいの……。
 吹いてくる風がその窓にかかったレースのカーテンを大きく揺らした。

 次の日の朝。
 ろくさんはいつものように美奈海の食事の用意だけして海へ出ていた。一昨日からの美奈海の様子を美里から聞き、逡巡したことも事実だった。
 美奈海のことを父親としてもっとしっかりと見てやる必要があるんじゃないか。
 それは事故で妻の歩惟を失ったときからつねに繰り返している自問でもあった。そして、それに対してきちんとした答えを出すことができずにこの十年、過ごしてきたこともまた確かだった。
 ただ美奈海がろくさんに対しては、いままでとまったく変わらないのに、ろくさんがいつもと違う態度にでるのもなにかおかしく感じていた。いまさら不自然なことをしても返って美奈海のためにならないような気がする。どう転んでも母親にはなれないからだ。
 気がつくとろくさんはいつものように家を出て、そして海へ向かっていた。
 生憎、この日の逗子の海はとても穏やかだった。うねりもなく、いつもなら打ち寄せてくるちいさな波すらない。風もなく、海はまるで鏡のようにただ蒼い空の色を映して碧く輝いていた。
 こんな日はサッパーの日だった。
 海に出ている真夏が見えた。ろくさんと言葉を交わしてからさほど時間は経っていなかったけど、もうその姿はずいぶんちいさくなっていた。鐙摺を過ぎて、そのまままっすぐ葉山の赤灯台を目指している。
 ──速くなったなぁ、あの娘。どこまでいくんだろう? このまま森戸? それとも名島かな?
 そんなことを思いながらSUPボードを持ってこなかったことをすこし悔やんでいた。
 Tシャツに短パン、それにビーサン。いつもの恰好のろくさんは東浜から中央に向かいながらぶらぶらと歩きだした。まだまだ陽射しは強い。夏を思わせる輝きだった。
 ──暑い一日になりそうだ。
 きっと海で遊ぶ人たちで今日も賑わうだろう。
 海の家の撤去が終わった逗子海岸は、ずいぶん広く見えた。
 海岸の中央の近くまで来て、ろくさんはいったん足を止めた。波打ち際まで歩いてそこでなにかを吹っ切るように大きく息を吸った。潮風が胸いっぱいに入ってきた。
 ─爽快そのもの!
 ろくさんはそう独りごちると自分を納得させるように頷いた。
「木崎さん、ですか?」
 そのとき声をかけられ、思わず振り返った。
 聞き覚えのある声。勅使河原梨沙だった。ピンクのTシャツにデニムのミニスーカート、それにビーサン。先日の夜の装いに比べるとずいぶんとラフだった。
「あっ、先生」
 ろくさんはそういって軽く頭を下げた。
「どうも、こんなところでお会いするとは」
 そういいながら梨沙はろくさんのところへ歩み寄ってきた。
「いや、海バカなもので、朝はいつも海に」
 なぜかろくさんはいくぶん照れながら口を開いた。
「海バカなんて。でも確かにずいぶん日焼けしていらっしゃいますね」
 肩を並べるようにして立ち止まると、梨沙がろくさんにいった。
「先生はこんなところへ、またどうして?」
「あ、わたし引っ越ししてきちゃったんです。夏休みに」
 梨沙がろくさんの顔を見ながらいった。
「引っ越しですか」
「ええ、逗子の小学校の担任になって、それで何度かこうしてここの海を見ているうちに、どうしても海のそばに住みたくなって。前は弥生台って相鉄線沿線で海とはまったく無縁だったんです。それが、ここの海を見ているうちにどうしても。あら、だったらわたしも海バカかしら」
 そういって梨沙は笑った。その笑顔がろくさんにはなにかとても懐かしいものに見えた。
「そんな、先生が海バカってことは」
「いいんですよ、それで」
 そういうと梨沙は海を見た。
「でも、気持ちいいですね。朝の海。とっても碧くて潮風がやさしい」
 そういいながら首を傾げて顔にかかりそうになった髪をかき上げて耳に掛けた。
 ──この仕草……。
 ろくさんは思わず梨沙の横顔を見つめていた。
「引っ越すだけの価値はあったでしょ、逗子の海は」
「ええ、おつりがくるぐらい」
 梨沙はそういってろくさんの顔を見た。
「先生はご家族と一緒に引っ越し?」
 ろくさんの言葉に梨沙は軽く照れ笑いしながら答えた。
「わたしひとりです。独りものなので」
「あっ、そうでしたか」
 そういってろくさんは頭を掻いた。
「その、先生って止めませんか。学校ならともかく、こういうところだと場違いみたいで、なんだか照れ臭くって。だって木崎さんの方がわたしよりも先に生まれてますよね。だったらわたしが先生っていうのはどうにもそぐわない感じがして」
 そういって梨沙はろくさんの顔をじっと見た。
「それもそうか、でもなんといえば?」
 ろくさんはそういうと首を捻った。
「そうね、どうしたらいいかしら。勅使河原ってのはいいにくいしまどろっこしいし、それなら名前で呼んでもらっても」
「名前?」
「ええ、梨沙と」
「じゃ、なんだかちょっと照れちゃってお尻が痒い感じだけど、梨沙さんで、いいですか」
 ろくさんが戸惑いながらいった。
「ええ、それでお願いします」
「じゃ、梨沙さん、おれからも。木崎さんは止め。こういう場所ではろくさんでお願いします」
「ろくさん?」
 梨沙はそういって首を傾げた。
「それが、そうですね通り名なので」
 ろくさんはそういってにっこりと笑った。
「木崎さんではなくて、ろくさんなんですね」
 梨沙は確かめるようにいった。
「そう、ろくさん」
「なんだかその由来を知りたくなりますけど」
 そういって梨沙はろくさんの顔をじっと見た。
「それはいずれ。あ、いや、知る必要はないか。ただ、ろくさんで」
「なにやら曰くありげですね。わかりました」
 そういって梨沙は笑った。
「美奈海さんはどうですか、その後?」
「美奈海はいつも通り。心配かけちゃったみたいですね」
 ろくさんはそういって苦笑した。
「いいんです、当然ですから」
 そういうと梨沙は頷いた。
「ここへは一緒に来ないんですか、美奈海さんと」
「あ、いつもあいつが眠っているうちに来ちゃうんで。海にはひとりで」
「あら、朝ご飯とかは?」
 梨沙はそういって首を傾げた。
「ご飯と味噌汁は用意して。たまごは自分で好きなようにしろって。いつも目玉焼き作ってるみたいだな」
「学校があるときも?」
「ええ、毎日。どうも父親失格なんで、おれって」
 そいうとろくさんは笑った。
「そんなこと。だからなんですね、あの子、美奈海さんとってもしっかりしている」
 梨沙はなんだか納得したように頷いた。
「でも、毎日海でなにを?」
「サーフィン。だから海バカなんです、ただの」
 梨沙の顔を見ながらろくさんはいった。
「サーフィンですか」
「ええ、もう若い頃からず~っと海でサーフィン」
 ろくさんはそういって頷いた。
「今日は?」
「波がないから散歩。波がないときはSUPもやるんですけどね」
「サップって?」
 梨沙は聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「スタンドアップパドルサーフィン。ボードの上に立って、パドルで漕ぐ。ほら、あそこ、見えますか。あそこで海の上に浮かんで、パドル漕いでいる」
 そういってろくさんはまとまってクルージングしているサッパーたちを指さした。
「あれのことなんですね。そうかサップっていうんだ。はじめて見たとき、ちょっと驚いたんですよ。海の上に人が立ってるように見えて。なんでって」
 梨沙はそういってなにか納得したように頷いた。
「今日みたいに海が穏やかだとああしてクルージングを楽しんで、波があるときはサーフィンもできる」
 ろくさんはそういって梨沙の顔を見た。
「わたしにもできるかしら?」
「ええ、だれでも。半日も試せば大抵は立って漕げるようになる」
 ろくさんは頷いた。
「そうなったらマジで海バカ確定」
「おもしろそう。海バカへの第一歩ね」
 梨沙はそういって笑った。
 その笑顔をろくさんはどこか懐かしげに、そして眩しく感じていた。
 ほどなくどちらからともなく挨拶をして、梨沙は西浜に向かって歩いていった。
 その後ろ姿をじっと見ながらろくさんは美奈海のことを考えていた。
 学校では先生がいる。あの人ならきっと優しく美奈海のことを見てくれるだろう。彼女の人柄をろくさんは頼もしく思えて、すこしホッとしていた。
 ──それじゃ、美奈海が家にいるときはどうする?
 父親としてできることがいったいなんなのか、きちんとろくさんには答える自信がなかった。海には答えは自分で作るんだ、なんていっておきながら、答えを出すことができないおれ……。
 ──ただの海バカの男……。
 なぜだか美奈海に申し訳ない気になり、ろくさんは泣きたくなってきた。
 そこに立ち尽くしてただ海を見た。
 蒼い空と碧い海。そのどこまでも広がっている煌めきが逆にろくさんの心を締めつける。
 潮風がなぜか眼に沁みた。
 ろくさんはふいに顔を下げると右の掌をじっと見つめてから拳を閉じた。
 ──母親か……。
はじめから つづく

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夕焼けフォトグラファー / 物書き / デジタルコンテンツデザイナーの癌サバイバー、竹井義彦です。 逗子の海の写真や、オリジナルの小説をメインに公開しています。よろしくお願いします。