ものがたり屋

ものがたり屋 壱 棘

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

    棘


 あらかじめ立てておいたプランを、何度も何度も頭の中で繰り返しシミュレーションしてきた。
 そのお陰か戸惑うことはなかった。
 確かに思っていた以上に脈拍は早くなり、心臓の鼓動も激しくなっていた。けれど、それが元でトラブルになるようなことはなかった。
 栗原は林を抜けると、あたりを見回してから、ゆっとりと車に戻った。
 ポケットからキーを取り出す。
 鍵穴に差そうとしたが手が震えていて、簡単にはいかなかった。慌てているわけではない。きっと慣れないほど重いものを担ぎ上げたからだ。
 自らにそう言い聞かせると、大きく深呼吸をしてから、もう一度キーを差し込んだ。今度はすんなりといった。
 ドアを開けると、ドライバーズシートに滑り込むように腰を降ろした。そのままエンジンをかける。
 が、すぐには発車しようとはせず、ハンドルに両手をかけたまま、ぼんやりと前を見ていた。無灯火だから当たり前の話だが、あたりは真っ暗だった。きっと夜空を見上げれば瞬く星が見えただろう。しかし栗原にそんな心の余裕はさすがになかった。
 スーツのポケットから煙草を取り出すとくわえ、シガーライターで火を点けた。
 窓ガラスを開け、外へ向かって煙をゆっくりと吐きだした。左手には空になった煙草のパッケージが残っていた。そのまま握りつぶすと放り投げようとして止めた。
 ようやく落ちついてきたようだった。こんなところに煙草のパッケージを捨てたらどういうことになるのか、考えられるようになっていた。
 ゆっくりと煙を吐きだしながら、ここへ来てから今までの行動を振り返ってみる。予定していた通りにできたかどうか、なんらかの不測の事態はあったかどうか、じっくりと思い出してみる。
 なにも拙いことはなかった──。
 栗原はそう確信すると、煙草の火を消し、ハンドルを握った。
 右手にちくりと痛みを感じた。
 ルームライトを点けて、見てみる。人差し指の第二関節のあたりに棘が刺さっていた。親指側のところで、折り曲げると少し突っ張った感覚とともに微かな痛みがあった。
 きっと木の枝を払い除けるときにでも刺さったのだろう。
 左手の親指のツメで押し出そうとしてみたがかなり深く刺さってしまったらしく、取れそうになかった。
 なにたいしたことじゃない──。
 栗原はひとりごちるとハンドルを握り直して、車を走らせた。
 走り出してすぐは気になっていたが、何度もカーブを曲がり、山を下っていくうちに、棘のことはすっかり忘れてしまっていた。
 そのまま家に帰ると、風呂にも入らずベッドに潜り込み、ただひたすら眠った。

 むしろいつもより気持ちのいい朝だった。目覚ましが鳴る寸前に起きると、そのままバスルームへ。
 シャワーを流しっぱなしにすると、洗面台の鏡を見てみた。
 どこも変わっていない、いつもの自分が映っていた。顔の角度を変え、左右それぞれの横顔を確かめる。納得したのかやがてパジャマを脱ぎだした。
 湯気に満ちたバスルームに入ると、まず頭からシャワーを浴びた。
 ひとしきり浴びたところで目を開けると、浴室の鏡に映っている自分を見始めた。すっかり濡れてしまった髪、何度も洗面台で確かめた顔、それから裸の胸、腹、脇腹や下腹部、腕に両脚。鏡に映るそれぞれの部分を、自分の目で見てから鏡に映してみた。
 どこかになにかの痕がないか自分の目だけでなく、鏡に映してみることで見落としがないようにしたかったのだろう。シャンプーで髪を洗い、ボディソープで身体を洗った後も、いつまでもシャワーを浴びなが確かめていた。
 バスルームを出ると、ていねいにバスタオルで身体を拭いていく。一滴の水滴も残さないように、洗面台の鏡に自身の裸身を映しながら、隅々まで拭いていった。
 すべて拭き終わると、今度はドライヤーで髪を乾かしはじめた。
 全裸のままベッドルームに戻ると、クローゼットから服を取り出して身につけていった。部屋の隅には昨日着ていた服が山になっている。
 栗原は着終わるとキッチンまでゴミ袋を取りに行き、脱ぎ捨てておいた服を無造作につっこんでいった。すべて入れ終わると袋の口をしっかりとしばる。強くギュッとしばったとき、右手の人差し指に微かな痛みが走った。
 棘が刺さったままになっていた。昨日の夜、車の中で見たときと状態は変わっていないようだった。奥深くに木の欠片があった。毛抜きを使っても取れそうにないその欠片を左手で皮膚の上から触ってみた。痛みはない。動かした拍子にたまたま痛みが走ったのだろう。
 栗原はすぐに棘のことは忘れて、ゴミ袋を今度は大きな紙袋に入れる。その紙袋をガムテープでぐるぐる巻にすると、その紙袋をまた半透明のゴミ袋に入れた。その隙間に台所の生ゴミを捨てると、袋の口をしっかりしばり、外に出しにいった。
 今日は燃えるゴミの日だ。もちろんはじめから予定していたことだった。次の日に、着ていたものを怪しまれないようにゴミといっしょに捨てることにしていたのだ。
 すぐにゴミの回収車がやって来た。栗原が捨てたゴミ袋は、そのまま回収車に積み込まれていった。栗原は回収車が走り去るのを見届けてから、部屋に戻った。
 簡単な朝食を用意するとダイニングテーブルに着いた。
 トーストに珈琲、それにサラダ。
 栗原は焼けたばかりのトーストにたっぷりとバターを塗ると、新聞を広げながら食べ始めた。
 新聞をいつもよりもじっくりと読んだせいで、朝食に意外に時間がかかってしまった。腕時計を確かめると、すでに始業時間を過ぎていた。
 栗原は会社に電話をかけると、たまたま電話に出た子に、これから小田原の取引先に行くと、今日の予定を伝えた。あらかじめその取引先の担当者にアポイントは取ってあった。昨日、退社するときにも壁に掛かっているホワイトボードに直行すると書きこんである。
 電話を切ると、昨日、持ち帰ったバドワイザーの小瓶を台所へ持っていった。中を何度も何度も洗剤で洗い流した。念のために匂いを嗅いでみたが、クロロフォルムの匂いはしなかった。
 冷蔵庫からバドワイザーの缶を取り出すと、プルトップを開け、中身を小瓶に移した。それから中身を捨てると、真新しいビニール袋に小瓶を入れ、口をしっかりと閉じた。
 外出の用意を済ませると、小瓶が入ったビニールごと鞄に入れ、車庫へと向かった。
 車のエンジンをかけると栗原はいつも利用しているガソリンスタンドへ立ち寄り、給油し、ついでに洗車も頼んだ。取引先に出かけるときには、よくこうして車をきれいにしてから訪問することが多かった。
 顔なじみの店員も栗原のことはよく知っていて、今日はどこまで行くんですか、と挨拶代わりに尋ねてくるぐらいだった。
 栗原はいつもの調子で、小田原なんだ今日は、と答えると、カードで支払いを済ませて車を走らせた。
 二四六を使い、西へ車を走らせた栗原は二子玉川を過ぎしばらく走ってから、港北ニュータウンへと方向を変えた。ほどなく走ると、コイン洗車場を見つけ、そこへ車を入れた。
 ガソリンスタンドで洗車をしたからボディは綺麗なままだった。けれど、栗原はトランクからブラシと洗剤を取り出すと、念入りにタイヤを洗いはじめた。前後四本のタイヤ洗い終えると、今度はクリーナーを使い車内の掃除をはじめ出した。
 それこそ髪の毛一本も見逃すまいとていねいにていねいにゴミを吸い取っていく。特に後部座席の左側には気を遣った。昨日、寝かせていた頭がちょうどその部分にあったからだ。
 クリーナーのホースを引っ張った瞬間、右手の人差し指に痛みが走った。あの棘だった。
 掃除を終えると、栗原は再び車を走らせた。
 都筑ICから第三京浜に乗ると、そのまま横浜新道を通り、国道一号線から藤沢バイパスを使って、辻堂へと抜けた。
 海岸沿いにしばらく走り、適当なところで駐車場を見つけると、そこへ車を駐めた。
 鞄からビニール袋を取り出すと破って、バドワイザーの小瓶だけを隅っこにある汚いゴミ箱に放り込んだ。
 栗原はそのまま振り返ることもせずに車に戻ると、さらに車を走らせた。西湘バイパスを使って小田原へ行くと、取引先の会社に顔を出した。
 特に商談があったわけではない。しかし、仕事柄なにもなくても月に一度ぐらいは顔を出しておかなければいけなかった。
 先方の担当者もそのあたりよくわかっていて会議室で向かい合うように座ると、互いに煙草をくゆらせて、他愛もない世間話に終始することになる。
 小一時間ほどだったろうか、あれこれとそれこそまったく内容のない話が続いた。しかし、普段ならそんな会話に苦痛を感じたことのない栗原だったが、この日は少し様子が違った。
 応接室に入ったときから右手の棘が疼き出したのだ。それはゆっくりとしたサイクルでじんじんと疼いた。たいした痛みではない。しかし疼いている間、会話に集中することができず、ついつい親指で棘が刺さった部分を押さえつけるように触ってしまっていた。あまり気持ちのいい感覚ではなかった。強く押すと、しばらくの間、疼きは治まったが、やがて潮が満ちてくるように疼きはじめるのだ。
 その疼きのサイクルは、昨夜聞いたあの呻き声を思い出させた。
 なにごともなかったように話を終えた栗原が取引先の会社を出ると、棘の疼きは嘘のように消えていた。
 帰りは東名を使った。
 用賀ICから環八に入ると、最初に目に入ったファミリーレストランに立ち寄った。車を駐車場に駐めると、店に入り窓側の席に座った。
 すぐにウエイトレスがやってくる。栗原は煙草を吸いながらメニューをめくり、注文を決めた。特に食べたいものがあるわけではなかったので、お勧めセットにした。
 窓の外をひっきりなしに車が通っている。その車一台一台のハンドルを握っている人それぞれが、いろいろな悩みを抱えながら人生を歩んでいるんだと思うと、栗原はうんざりした。
 なんだってこう七面倒なんだ──。
 思い通りにいかないことがあることは理解できる。しかし、その度ごとに人からああだこうだと指図されるのはご免だった。
 仕事は──そう仕事なら仕方ないと割り切ることができた。しかし私生活は別だった。自分の、自分だけの人生なのに指図されるのはまっぴらだった。それも猫なで声で甘えたように見せかけながら、その実、指図と変わらないことに悟ったとき──。
 気がつくと無愛想なウエイトレスがテーブルに注文した品を並べていた。並べ終わると作り笑いを浮かべ、ご注文の品はこれで全部ですかと尋ねてきた。
 栗原はただ頷くと、ナイフとフォークを手にした。
 鉄のプレートにハンバーグが乗っていた。加熱したばかりだからだろう、ジュージューと音を立てていた。フォークを刺し、ナイフで切ろうとすると、ナイフを持つ右手の人差し指が痛んだ。
 棘だった。
 見た目には、昨夜とまったく変わっていなかった。なのに、痛むたびにその痛みは少しずつ大きなものになっていた。
 ──今さら、どうしろというんだ。
 ナイフを持つ右手をしばらく見つめていたが、やがて首を振ると、遅めの昼食を食べはじめた。
 ナイフを使いながら栗原は、棘のことを考えていた。
 いつ刺さったのかよくわからなかった。しかし、昨日の夜、あの林の中で刺さったことは間違いなかった。
 ──昨日の夜。
 食事を終えると珈琲を飲みながら、ゆっくりと煙草を吸った。煙を吐きだしながら右手の棘が刺さってる部分を親指で触ってみる。こうして触っていてもなんともないのに、時々痛みが走るのはどうしてなんだろう。
 ──良心の呵責──。
 まさか、そんなことはあるまい。これっぽっちも悪いことをしたなんて思っていないんだから。
 栗原は親指で棘の部分を触りながら考えた。
 ──なにか虫の知らせのような……。
 馬鹿馬鹿しい。誰がなにを知らせるというのだ。昨日はきちんと予定通り行動したはずだ。ああ、抜かりはない。すべて予定通りだ。
 この店を出るとき、バドワイザーの小瓶を入れていたビニール袋を捨てればすべて処分したことになる。
 すべて……。
 いや、待てよ……。手袋はどうした? 服といっしょに処分するはずだった手袋は……。
 林を出て車に戻る間に外して背広のポケットに入れたはずじゃなかったっけ。うん? いや、覚えがない──。
 今朝、服を捨てるときに確認しておけば……。
 栗原は立ち上がると、レジで支払いを済ませてから車に戻った。途中、ゴミ箱を見つけると予定通りバドワイザーを入れていたビニールを捨てることは忘れなかった。
 釈然としないまま車に乗った栗原は、しかししばらくの間エンジンをかけられずにいた。
 どうしても手袋のことが気になるのだ。しきりに右手の親指で棘が刺さった人差し指を触りながら思い出そうとしたが駄目だった。
 どれぐらいそのままでいただろう。やがてエンジンをかけると、栗原は会社へ向かった。
 会社に戻るとデスクに溜まった書類とFaxを次々に片づけ、メールを確認していった。どれもこれも当たり前のことだが仕事の用件ばかりで、実に味気ない作業だった。いくつかのメールに返信を書き、とりあえず不在だった間に溜まったものを片づけると、取引先に提出するつもりの企画書作りを始めた。
 パソコンのワープロソフトを起ち上げると、頭の中にあるぼんやりとした状態の文章をそのまま打ち込み、後で整理していくつもりだった。
 煙草を一本吸ってから、栗原は文章打ち込みはじめた。けれど、右手の棘が気になって思うように作業は進まなかった。
 決して痛いわけではなかった。確かに時折痛みが走ることはある。けれど改めてなにか手当をしなければいけないような痛みではなかった。心に引っかかっているなにかが、ふっと顔を覗かせるような、そんな感じだった。
 栗原はデスクを離れると、窓際まで行き、そこで煙草を吸った。
 窓ガラスに煙草の煙を吹きかけてみる。窓の向こうは道路になっていて、車がひっきりなしに行き来している。昨日の夕方も、同じようにここで煙草を吸っていた。
 そのときは、プランを何度も何度も頭の中でシミュレーションしつくした後だった。すべての準備を終え、あとは彼女を電話で呼び出すだけだったのだ。
 ──久しぶりに夕食でも──
 そんな文句で誘おう。煙草を吸いながらそう考えていた。
 そして、彼女に電話をかけて誘い出したのだ。
 もう一本、煙草をくわえ、栗原は実際の行動を最初からひとつひとつ思い出していった。車に乗せたところから、最後まで──
 何度思い出してみても、手袋のことだけが記憶になかった。
 どうしてだろう手袋のことだけがわからない。冷静ではなかったにしても突飛な行動はとらず、きちんと予定通りに行動したのに。
 煙草を吸い終えた栗原は、いつしか右手の棘をその親指で触りながら、考え込んでいた。しかし、明快な答えは出ず、逆に不安だけがゆっくりとその姿を形作りはじめていた。
 ──もし手袋があそこに落ちていたら──
 そんな考えが頭から離れなくなっていた。
 すぐに帰らず残業していた栗原だったが、作業はまったくといっていいほど進まなかった。その代わりに不安だけが大きくなっていた。
 まるで心に刺さった棘のように。

 栗原はいったん帰宅すると、夕食を済ませてから出かけることにした。大きく膨れあがってしまった不安を取り除くために、もう一度、昨日の行動を実際に再現することでなぞってみることにしたのだ。
 そして、まず彼女を車に乗せた二子玉川駅へ向かった。
 昨日、駅から少し離れたところで彼女を乗せた栗原は、多摩堤通りから住宅街に入り、暗がりに車を停めた。それから人気のないことを確かめ、彼女を後部座席へと移らせたのだった。
 ──プレゼントがあるんだ、渡したいから後ろのシートに移ってくれないか──
 彼女はなんの疑問も抱かず言われたとおり後ろのシートに移った。栗原も移り、隣に座った。
 ──目を瞑ってごらん──
 そういって栗原はクロロフォルムをたっぷり染みこませた布で彼女の口を塞いだ。彼女は呆気なく眠りに落ちた。
 後ろのシートに彼女を寝かせたまま、栗原は車を走らせた。こうしておけば覗き込まれない限り、ひとりで車を走らせているように見えるだろう。信号待ちで知り合いに顔を見られたとしても、まさか女連れだとは思われないはずだった。
 栗原は昨日と同じ道を通り、二四六へ戻るとひたすら西へ走り続けた。
 どうしてこんなことをしなければいけなくなってしまったのか。栗原にも正直よくわからなかった。なにか理由があったわけではなかった。ただ、すべてを一度チャラにしたかっただけだった。
 長く住んでいるとその部屋にそれまで過ごした澱のようなものが溜まってしまう。ゴミや汚れといったものをどんなに綺麗にしても決して消えることなく溜まっていく澱。それが彼女だったのかもしれない。
 だれか別の女が好きになったわけでも、彼女がなにかの障害になったわけでもなかった。例えてみれば澱としかいいようがない。
 一度まっさらな自分に戻るため、といえばわかりやすいかも知れない。うんざりしている今の自分を、もう一度やり直したかったのだ。
 もちろん身勝手なことは百も承知していた。酷い話だということも理解している。彼女はなにも悪くない。しいていうならこんな自分と関わってしまったことが不幸であった。
 もし犯行が白日の下に晒されてしまえば、重い罪を課せられることはわかっている。それでも澱を処分したかったのだ。
 やがて車は山の中へと進み、さらに林道を登っていった。あたりは重苦しいほど暗かった。ヘッドライトがなければまったくの闇に閉ざされてしまうだろう。その中をただ進んでいった。
 やがて車一台辛うじて駐められるだけのスペースのある場所に着いた。栗原は昨日と同じようにそこで車を駐めた。ヘッドライトを消し、エンジンを切ると漆黒の闇の中にいた。
 ドアを開けて外に出る。
 右手にはグローブボックスから取り出したライトがあった。スイッチを入れる。か細い明かりが何メートルか先で闇に溶けてしまう。
 栗原は車にもたれるように立つと、煙草を吸った。長い時間をかけて吸い終わると、ゆっくりと歩きはじめた。
 昨日、彼女を担いで歩いた獣道のようなところを、記憶を頼りに辿っていく。
 彼女の身体は重かった。想像以上に重かった。自分が犯そうとしている罪の重さを実感させるのに充分な重さだった。そしてそれは栗原にとってこれまでの人生で溜め込んでしまった澱の重さでもあった。
 そんなに遠くないはずなのに、その場所まで昨日もそうだったがかなり時間がかかってしまった。
 栗原は歩きながら、昨日のことを思い出していた。彼女の身体を担ぎ、彼女の手荷物を持って歩いたのだ。
 ──手袋は?──
 手袋はしていなかった。
 そう栗原は昨日、手袋などしていなかったのだ。指紋のことなど頭になかった。いや、予定では手袋をしているはずだった。しかし、彼女を眠らせた瞬間、まるでヒューズが飛んでしまったように、手袋のことなど頭から消えていたのだ。
 必死に考えても思い出せないはずだった。
 栗原は立ち止まると苦笑してしまった。どうやら今の今まで本当の意味で冷静さを欠いていたのかもしれない。手袋をしていたら棘など刺さるはずがないのだ。
 ライトで、右手を照らしてみた。
 人差し指の第二関節のあたりに棘が刺さっていた。親指側のところで、折り曲げると少し突っ張った感覚とともに微かな痛みが、いまだにあった。
 ガサッ!
 そのとき、栗原の背後で物音がした。
 心臓が壊れてしまうのでないかと思うほどの驚愕を覚えた栗原は、凍りついたようにその場に立ちつくした。
 全身の神経を尖らせて辺りを窺う。
 ──人なのか……、それとも野犬の類なのか……。
 息を詰めて気配を探ったがなにも感じることはできなかった。
 気のせいではない。しかし、あたりになにかいるわけではなさそうだった。
 大きく息を吐くと、栗原は再び歩きはじめた。あの場所へ。
 ほどなくその場所に着いた栗原は、あたりをライトで照らした。しかし、そこにはなにもなかった。ただ木が生い茂っているだけだった。
 いや、そんなはずはない。
 栗原は全身から冷や汗が吹き出すのを感じた。
 目の前にある木に、昨日、彼女を吊したのだ。まるで自殺したよう見せかけるために、彼女の家にあったナイロンのロープを首にかけ、枝越しに木の幹にしっかりとしばっておいたのだ。足元には靴を揃え、バッグなどもいっしょに並べておいたのだ。
 なのに目の前の木には彼女の遺体はなく、地面にもなにもなかった。念のために、あたりを探したが遺体どころか、靴やバッグも見あたらない。
 ──どういうことなんだ──
 吹き出した冷や汗がゆっくりと冷たくなっていく。栗原は悪寒にも似た寒気を覚えた。
 確かに、昨日、彼女を──。それともあれは夢だったのか。妄想だったのか……。いや、そんなはずはない。恐怖を押し殺し、すべての感情を遮断して彼女を担いでこまで来たのだ。そして──。
 栗原の頭はすっかり混乱していた。
 そのとき、背後からライトが照らされた。
 混乱していた栗原は思わず叫び声を上げたが、すぐに黙ってしまった。崩れるようにその場に倒れてしまったのだ。
 ライトの主は大柄な男だった。その男が持っていたライトで栗原を殴り倒したのだ。
「おいおい、なんだってこんなところをうろうろしているんだ。それとも、死に場所でも探していたのか。なら丁度いい」
 男は呟くようにそういうと、栗原が彼女を吊したはずの木の枝にロープを引っかけ、その先に輪を作り、栗原の首にかけた。輪の結び目をしっかり確認すると、その端を引っ張り栗原を吊し上げた。栗原の身体が吊されたのを確かめると、ロープを木の幹に縛りつけた。
 男はそれを見てにやりと笑うと、茂みに横たえていた女の首にロープの輪を通して、すぐ隣の木に吊した。
 男は無造作にポケットから煙草を取り出すと、火を点けた。
「どこのだれか知らないが、この女と心中したことになってくれ。これでこの女も寂しくないだろう」
 そういうと男は足早に去っていった。
 栗原は、どこのだれとも知らない女と木に吊され、そしてやがて事切れた。吊したはずの彼女の遺体がどうなったのか、ついに知ることはできず、頭は混乱したままだった。

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 いままで通り毎週、各話を新規に公開していきますが、合わせてこの総合ページも随時更新していこうと思います。
 シリーズを通して読み直したい、そんなことができるようになっています。ぜひもう一度、頭から読み直してください。
「ものがたり屋 壱 」総合ページ


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