ロング_NOTE

ロングボーダーの憂鬱 4 How Can You Mend a Broken Heart 1/3

 夏休みが終わってから十日ほど経っていた。
 逗子の海岸では海の家の撤去の工事の真っ最中だった。
 ──海水浴が終わったら、俺たちの海開きだから。
 叔父の長坂祐司がいっていた言葉の意味を、いまなら海は実感することができた。海水浴エリアを区切っていたロープがなくなった逗子の海は、確かに広々と見えた。
 ──海開きだ。
 早朝の逗子海岸。ちょうどいい感じのうねりが入っていた。膝から腰あたりの波が次々にやってくる。
 海は前の夜から海に出る準備をすると、まだ始発からさほど時間の経っていない電車に飛び乗り、逗子へやってきていた。叔父の祐司の家に寄って、海へ出る支度をするとそのままボードを抱えて海へ出る。
 波が入る日はこれが日課になっていた。
 寝ぼけ眼のまま乗る早朝の電車。学校へ通うための早起きとはまったく違う高揚感に満ちていた。海があるだけで毎日が大きく変わってしまった。もちろん生活のリズムもそして習慣も変わった。それは海にとってとてもいいことだった。
 ──来たっ!
 セットで入ってくる波の先頭のうねりに合わせてパドリングをはじめた。水を掴むような感じで両手で交互に掻いていく。パドリングはずいぶんスムーズにできるようになった海だった。肩越しにうしろから来る波を見ながら水を掻く。
 思っていたより大きめの波だった。ボードのうしろがぐいっと持ち上がった瞬間、海は目指す方向をしっかりと見定めて両手をボードのレール部分に置いた。上体を持ち上げるようにしながら、右のレールを押し込んですこしだけ波に入れる。利き足の膝を胸まで引き上げ、それから逆足を前にしてスムーズに立ち上がった。
 ボードが波が作り上げた斜面を滑り出すのを感じる。
 前足に体重をかけるようにして右斜めに滑っていく。腰の位置を意識しながら波を捉える。
 ──よし!
 その瞬間、身体が右に傾き、ボードの先端、ノーズが波に刺さっていくのが解った。ノーズが波に洗われるようにして深く入っていく。途端にボードは波に巻き込まれ、海はそのまま海へ放り出されてしまった。
 海面に顔を出すと、まず波が来ていないかをすぐに確かめる。セットの先頭の波だったから、続いてすぐにうねりがやってくるはずだった。案の定、頭の上から波が落ちてきた。その波の力に翻弄されるように海は巻かれる。
 またすぐに顔を海面に出すと波を確認した、もう一度うねりがやってきていた。海はボードにしがみつくようにしてやり過ごそうとした。けれど、同じようにまた巻かれてしまった。
 気がつくと足がつくところまで押し流されていた。
 海はボードを抱えるとそのまま立ち上がった。
 息が荒く乱れている。そのままヨタヨタと浜へ歩いた。
 ボードを傍らに置くと、浜に座り込むようにして腰を下ろした。大きく息を吸って、荒くなっていた呼吸を整えていく。何度か深呼吸を繰り返してようやく息は落ち着きだした。ロングジョンのうしろのジッパーを降ろすと上半身裸になった。緩やかなオフショアの風が気持ちよかった。
 ふっと海を見ると、サーファーがひとりちょうど波を捉えて立ち上がるところだった。さっき海が巻かれた波よりもサイズが大きい。もしかすると胸あたりのサイズだったかもしれない。
 両手で上体を持ち上げたと思ったら、もう板の上に立っていた。海とはテンポが違ってとてもスムーズだった。利き足の膝を胸まで持ち上げると同時に逆足が前に出て、瞬間的に立ち上がっていた。ベテランの動作だ。
 海はそのショートボーダーに思わず目を奪われてしまった。
 立ち上がるとそのまま鋭く波を駆け下り、綺麗なボトムターンからまたリップに向かって駆け上がっていく。リップの部分で空中へと飛びだすと体勢を変えて、また波の上に降り立った。まるで踊っているようだった。しかも、波の上に飛び出しながら、その波に戻ってまた斜面を滑降していく。ショートボードだからこそできる波の乗り方だった。ただ、いとも簡単にこんなことができるのはよほどの力量がないと無理だった。
 海は呆然としながらそのライディングに見とれていた。
 波から降りると、そのサーファーはボードを抱えて浜へと上がってきた。短く刈られた髪から水が滴り落ちる。その両耳にはクロスのピアスが揺れていた。すこしだけ太めの体型。ロングジョンのウェットスーツがちょっと窮屈そうだ。
 小菅貴大だった。
 ボードを抱えたまま海に近づいてきて、すぐ隣に腰を下ろした。
「さっきのは、もうちょっとだったわね。ボードの先っぽが入りすぎかな。横を意識しすぎかもよ」
 小菅の言葉に海はただ頷いた。
「はい」
 小菅はそんな海のことを気に留めることもなく両手で頭を何度も擦るようにして水気を飛ばしていた。
「あっ、はじめましてだったっけ」
 そういって小菅は笑った。
「ええ、はじめまして、です」
 海はドギマギしながら答えた。
「若い子がサーフィンやってるとこ見ると、つい口出しちゃうのよ。余計なお世話だった?」
「とんでもない」
 海は思わず首を横に振った。
「なら、よかった」
 小菅は人懐こそうな笑顔でいった。
「あの、さっきのライディングすごかったです」
 海は思ったままの言葉をいった。
「まあね、年期が入ってるもの、これでも」
 小菅はまんざらでもなさそうな顔で頷いた。
「ロングよね、それ。だれに教わったの、サーフィン。立ち方がとても上手だった。独学じゃないでしょ?」
 小菅は海の顔をじっと見ながら訊いた。
「ええ。叔父さんに教えてもらって」
 海は上目遣いになりながら答えた。
「叔父さんか。ねえ、名前聞いてもいい?」
 小菅は思わず訊き返した。
「はい。あの、長坂祐司って」
「え? 祐ちゃん。あなたが祐ちゃんの甥っ子?」
「はい」
 海は意外そうな顔で頷いた。
「あの、知り合いなんですか?」
「祐ちゃんったら、よくウチの店で呑んでるから。話、聞いてる。甥っ子がサーフィンはじめたって。あなたのことか。あ、いま壊してる最中だけど、North Shoreって海の家やってるの。といってもまだお酒呑めないお年よね」
 小菅が笑いながらいった。
「はい、立派な未成年です」
 海も釣られるように笑いながら答えた。
「来年は呑める?」
「いや、まだしばらくは未成年です」
「そっかー、ちょっと残念。でもいいわ、来年お店に来てよ。ノンアルコール奢ってあげるから。なかなかのチャレンジャーだし」
 小菅は嬉しそうにいった。
「いま、横にいきたいのよね、波を横に」
「はい。レールをちょっと押し込んで波に入れるんだって、ろくさんに教えてもらったんですけど、なかなか上手くいかなくて……。たまに、いけることがあるんだけど、まだ思い通りにいかなくて」
「いやだ、ろくさんにも教わってるの?」
 小菅が軽く驚いたような声を上げた。
「はい、いつだったかぼくのライディングをろくさんが見てくれたみたいで」
「ろくさんに教わったか。なんだか将来性感じるわ。ねぇ、名前教えて」
「あっ、はい。新垣海です。海って書いてかい」
「なんだかサーファーになるための名前みたいじゃない。いいわね。あたしは小菅貴大。みんなスガちゃんて呼んでるから、それでいいわ。スガちゃんで」
 海は大きく頷くとおずおずと口を開いた。
「あの、ろくさんとも知り合いなんですか?」
「なにいってるの。ろくさん知らなきゃ、もぐりだって。逗子の街、歩けないから」
 小菅はそういいながら海の背中を軽く叩いた。
「視線が大切なの」
 小菅がちょっと真顔になっていった。
「はい、それもろくさんに聞きました。まず、いきたい方をしっかり見ろって。それからレギュラーなら右のレールを、グーフィーなら左のレールを押し込むように波に入れてやるんだって」
 海は噛みしめるようにいった。
「そう、それ。意外ねぇ」
 小菅が首を傾げるようにしていった。
「なにが、です?」
「ろくさん、滅多に人に教えないもの」
 小菅が頷きながらいった。
「そうなんですか」
 海はすこし不思議そうにいった。
「あたしがサーフィンはじめたのは、ろくさんに憧れてなの。もうずいぶん前のことね。あの人がハワイにいく前だったかな。辻堂の海でサーフィンやってるろくさんに会いにいったわ。あの人、素っ気なくてね。なに訊いても生返事しかしなくて、なんにも教えてくれないの」
 小菅が思い出し笑いをしながらゆっくりと話した。
「ハワイいく前って……」
 海が訊いた。
「知らないの? あの人、サーフィンやるためにハワイにいってたのよ。プロのサーファーだったから」
 小菅は海の眼をじっと見ながらいった。
「ロングボーダーのプロ。日本じゃ無敵だったから。まぁ、格好よかったのよ。あら、いまでも素敵だけどね」
 小菅はそういって首を竦めた。
「プロ……」
「だから、ろくさん知らなきゃもぐり。もう恥ずかしいぐらいもぐり。木崎匡一プロだもの」
 小菅はなにかを思い出すようにいった。
「ろくさん、なんて気軽に声がかけられるようになるなんてね。考えもしなかった。日本に戻ってくることもないはずだった……」
「なにかあったんですか?」
 海は思わず身を乗り出すようにして訊いた。
「哀しい事故がね……」
 小菅はそういって首を横に振った。
「ごめんなさい、あまりいいたくない……。祐ちゃんに訊くといいわ。そのあたりの顛末は。祐ちゃんが親身になってその頃のろくさんを支えてたから」
 小菅はすこし哀しそうな顔で笑った。
「はい、今度機会があったら叔父に訊いてみます」
 そういって海はちいさく頷いた。
「まだ入る?」
 小菅が訊いた。
 海は左手首の腕時計を見た。七時半を過ぎようとしていた。
「あっ、そろそろ戻らなきゃ」
「あら、そんな時間?」
 小菅はそういいながら海の腕時計を覗きこんだ。
「偉い。ちゃんとタイドグラフついてるじゃない。まだ潮が引いてるから、これからもいい波が来そうなのに」
 そういって小菅は海の眼を見た。
 海は嬉しそうに頷いて口を開いた。
「サーフィンやるなら潮の満ち引きは意識しないとって、やっぱり叔父にいわれて、貯金叩いて買いました。そろそろ戻って用意しないと学校に遅れるんです」
 海はそういって頭を掻いた。
「学校か。高校よね、どこ?」
 小菅の問いに海は背中の方を指さしながら答えた。
「すぐ後ろですけど、叔父の家で着替えないと」
「あら、海の真ん前でいいじゃない。これならいつでも好きなときに海に入れるわね」
「はい」
 海は大きく頷いた。

 叔父の家に戻ると海はシャワーを浴びて着替えた。海が通う高校は中高一貫の男子校で制服があった。いまはまだ九月なので、ワイシャツにグレーのズボンの夏服だ。それから叔父夫婦といっしょに朝食を食べる。子どもがいないからだろうか、海の面倒を見るのが嬉しくてたまらなさそうだった。
 叔母の朋美は弁当まで用意をしてくれていた。最初は遠慮していた海だったが、好きで作ってるんだから食べてと朋美にいわれて、断ることができなかった。さすがに早朝に家を出るときは母の淑恵も弁当を用意できなかった。海はいつも出がけに駅のコンビニでサンドウィッチを買って、車中で食べてから海に出ていた。それでも育ち盛りの年頃だ。すぐにお腹が空いた。
 学校でその弁当を食べる。朝、海に出るとよけいにお腹が空いた。だから昼を待たずにその弁当を食べてしまうことになる。
 叔母の弁当は、母の弁当に食べ飽きていたこともあったのかとても美味しかった。いまではそれを食べるのも楽しみのひとつになっていた。
 いつも三限目の授業が終わると食べた。それから昼休みは食堂でまたパンを買って食べる。
 この日も昼休みにいつものように食堂でパンと牛乳を買うと、空いているテーブルを見つけてそこに座って食べはじめた。
 中学生も高校生も一緒にこの食堂を利用する。だから昼の時間はごった返した状態になる。この日も窓から入ってくる強烈な陽射しをよそに、多くの生徒たちが食堂にこぞってやってきていた。
 そんな雑然とした雰囲気の中、ひとりの生徒がすたすたと海の座っているテーブルに近づいてきた。
「よう、海。これ解る?」
 そういって同じテーブルに座ったのはクラスメイトの田所だった。田所和樹。つるりとした顔でいつもスマホと睨めっこしていた。そのスマホの画面を海に見えるようにテーブルに置いた。
「何手?」
 海はそういって画面を見た。
 詰め将棋のアプリの画面だった。海は小学生の頃から将棋が好きで、よくゲームをプレイしていた。田所も同じように将棋が趣味だった。ふたりは去年も同じクラスで、互いに将棋が好きなことを知ると自然に仲良くなっていった。
 田所はいつも詰め将棋のアプリの画面をやや青白い顔で見ていた。クラスではすこしだけ浮いていたけど、なぜか海とは気が合った。
「七手」
「七手詰めか。手強い感じ?」
「初手がね、ちょっと頭を使うかな」
 海はじっと画面を見つめた。
 ふっと人の気配を感じて海が振り返ると、そこにクラスは違うが知った顔が立っていた。
 渡邊颯汰だった。身長がやたらに高い。百九十センチは優に越えているだろう。バスケ部で体育館に一歩足を踏み入れると途端に張り切りだす奴だった。海は、この男があまり得意ではなかった。
「新垣、将棋か」
 なんだかすこしだけ馬鹿にしたような口調だった。
「どうかした?」
 海はただ訊いた。
「いや、モナがしきりにお前に話してっていうから、とりあえず伝えるけど」
 モナというのは渡邊の彼女のことだった。成嶋萌奈美。目鼻立ちがくっきりとした美人だったけど、本人はどうもそれを意識しすぎているところがあった。海は彼女のこともあまり好きではなかった。大きな眼がやたらに目立つ娘で、自分のことをモナ、モナというのが口癖だった。
「モナがどうして?」
 海はちょっと意外そうに訊いた。
「お前、サーフィンはじめたんだって? この前、満里奈がいってた」

■ 電子書籍 ePub 版「ロングボーダーの憂鬱 3 Every Breath You Take」の販売開始
NOTE で無料公開した「ロングボーダーの憂鬱 3 Every Breath You Take」。

ろくさんを逗子では知らない人はいないというサーファー。けれどその過去を知る人はほとんどない。そして、彼の心に深く刻み込まれた傷は、いまだにそのまま。その心の傷は癒えることがあるんだろうか……。

そんな彼とひとり娘にまつわる物語が短編連作の長編で紡がれていきます。
逗子を舞台にした、熱く、そして切なく、心に沁みる物語。ぜひご愛読ください。

サーファーたちのバイブルとして読み継がれていくような作品にしたいと願って書きました。
ぜひご購入をお願いします。

「ロングボーダーの憂鬱 3 Every Breath You Take」ePub 版 価格 ( 税別 ) ¥ 500 -
http://digitaldreamdesign.co.jp/epub/longborder.html

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?