ロング_NOTE

ロングボーダーの憂鬱 3 Every Breath You Take 3/3

 美奈海とふたりで後片付けをしたあと、美里は海へ向かった。
 緩やかな坂を降りていくとバス通りをそのまま突っ切って富士見橋を渡る。渚マリーナの手前を左に折れて、田越川沿いに海岸へと歩いていった。
 渚橋の下を潜ると視界が大きく開けて目の前に海が見える。
 ちょうど逗子湾の東端だ。左手にはブロックが堤防の代わりに並べられ、田越川の河口と海を別けていた。右手には逗子湾が広がってる。逗子湾に沿って国道134号線がゆったりと曲線を描きながら右手奥へと伸びていた。その右手奥、海へ突き出ている大崎の向こう側に江の島が見える。
 そしてその左奥には富士山がくっきりと見えた。
 蒼い空と碧い海がどこまでも広がっている。陽の煌めきが強い。砂浜には美里の歩く影がくっきりと刻まれていく。
 美里は緩やかに吹いてくるオンショアの潮風を胸いっぱいに吸い込みながら、ゆっくりと波打ち際を歩いていった。
 海はとても穏やかだった。うねりもなく、打ち寄せる波の音もほとんど聞こえない。この静かな海も、また逗子の海の特徴のひとつでもあった。風もなく波もない海はサッパーたちの楽園になる。
 そろそろ日が昇ってからかなりの時間が経っていたけど、海にはSUP用のボードを浮かべてパドルを漕いでいる人たちがいた。
 美里はゆっくりと歩きながらろくさんの姿を探していった。海水浴場が区切られているから、東浜側にいるはずだった。
 まさか波のないこの日にサーフボードで海へ出ているはずはなかった。それでも、美里はまず海にいる人たちをじっと見ていった。それらしい人はいなかった。
 ふっと太陽の季節の碑がある階段のところへ眼をやると、その階段の一番下にろくさんはサーフパンツ一枚の姿で腰を降ろしていた。当たり前のことだが、全身が真っ黒に焼けている。
 ちょっとホッとしながら美里はろくさんのところへ歩みよっていった。
「おはよう」
 美里は思い切って口を開いたつもりだったけど、照れが入ってしまった。
「よう」
 ろくさんはいつもの調子で答えた。美里の顔を見るとちょっと意味ありげに笑った。
「大丈夫だったか」
「お陰さまで。起きたときはびっくりした。まさかろくさん家だとは思わなかったから。しかも、美奈海ちゃんがわたしの顔をじっと見てて」
 そういいながら美里は首を竦めるようにしてろくさんの隣に腰を下ろした。
「美奈海、ミリといっしょに朝ご飯食べたいっていってたからな」
 ろくさんは笑いながらいった。その傍らにはボードとパドルがあった。
「ろくさん、SUPもやるの?」
 そのボードを見て、美里が訊いた。
「なにいってる。これだってサーフィンの練習になるんだぜ。プロのサーファーたちも波がないときには乗ってるからな。体幹も鍛えられるし、なによりもバランス感覚が養える」
 ろくさんは頷きながら答えた。
「いやだ、まるでスクールのインストラクターみたいな答え」
 美里はろくさんの顔を見ながら軽く笑った。
「受け売りだもん。まぁ、そういうことだ」
「なにがなんでも海に出たいんでしょ」
 美里はそういって肩を軽くろくさんの肩にぶつけた。
「わかってるんじゃん」
 ろくさんは笑いながら美里の顔を見た。
「そういえば真夏ちゃんもSUPやってるんだって? スガちゃんに聞いた」
「ああ、やってる。今朝も海に入ってたよ。さっき帰っていったけど、熱心にやってる」
「ろくさん、教えたりするの?」
「いや。教えるのも、教わるのも苦手だから」
 ろくさんはそういって首を横に振った。
「確かに。サーフィンはじめたときだって独学だもんね、ろくさん」
 美里は懐かしむようにいった。
「ああやって夢中でなにかに集中できるときってのは、試行錯誤でもともかく吸収するのも早いんだ。もっともあの頃は、まともなスクールなんてなかったしな。まぁ、あっても俺はいかなかったけど」
「あれからどっぷりサーフィンだものね」
 美里はサンダルで足下の砂を掻きながらいった。
「わたしは……、そこまで続かなかったな……」
「ミリ、一時期熱心だったじゃないか」
 美里の足下を見ながらろくさんはいった。
「まぁね。熱病みたいなものよ。気がついたら醒めてた。わたしは海じゃなくて……」
 そういって美里はろくさんの顔を見つめた。Rough Boyで見るろくさんとはまるで別人のように見えた。陽に焼けた横顔がちょっぴり眩しい。
「うん? 海じゃなくて?」
「なんでもない」
 そういうと美里は視線を外して下を向いた。
「そうか。でも、昨日の酔い方は尋常じゃなかったぞ」
 ろくさんはからかうようにいった。
「やめて」
 そういうなり美里は顔を赤くなっていくのを止めようがなかった。耳たぶまで赤く染まってしまったようだ。
「あれは、わたしじゃないから……」
 そういうと今度は手で足下の砂を掬いはじめた。
「そうか、あれはミリじゃなかったか。確かに、すごいことを口走ってたからなぁ」
 ろくさんはそういいながら軽く笑った。
「え? なんて?」
 美里は思わずろくさんの顔を見た。
「ヤラレちゃうって。何度も何度も口走ってた」
「やめて」
 そういって美里はろくさんの背中を強めに叩いた。
「マジだって」
 ろくさんは笑いながら身をよじっていった。
「もう、知らない……」
「いや、知らないのはこっちだから」
 ろくさんはそういいにながら美里の顔をじっと見た。
「どうか、したのか?」
 ろくさんが真面目な顔で訊いた。
「どうかしたのかって……。あのね、そんなこと、こんなところで話せるわけないでしょっ。だから酔っぱらっちゃったんだから」
 美里は砂を掬いながら下を向いたままいった。
「いえるわけ、ないじゃない……」
 美里はただ誰にともなく呟いた。
 その声がろくさんの耳に届いたのかどうか、それを確かめるだけの勇気が美里にはなかった。
 ──抱かれたいのよ、あなたは。
 突然、小菅の言葉が美里の頭の中で木霊した。微かに聞こえてくる潮騒と混じりあいながら、その声はいつまでも消えてくれなかった。

 切れていたたまごを買いに近くのスーパーに買いに出たろくさんが店に戻ったのは開店してから三十分ほどたった頃だった。今日はまだだれも客が入ってなかったので、真夏に店を任せて買いにいったのだった。
 戻ってみると、そこに美里がいた。
 午前中にはろくさんの家を出て、北鎌倉の自宅に戻ったはずの美里が、またRough Boyに来ていた。赤のざっくりとしたTシャツに白の短パン。めずらしくビーサンを穿いている。ふだんの美里と比べるとずいぶんラフな恰好だった。
 真夏とふたりで話ながら笑っていた。
「おかえりなさい、ろくさん」
 真夏がなんとなく曰くありげにいった。
「おお」
 ちょっと気圧されたようにろくさんはただ頷くとカウンターの中へと入った。
「ミリ、どうした。今日はやけに早いし、おまけにラフじゃないか」
 そういってろくさんは美里をじっと見た。
「あんなことがあった翌日だから、今日はお休み。わたしの夏休み。だからラフな恰好で、のんべんだらりと過ごして、いまから迎え酒」
 美里は陽気にいった。
「でも意外! そんな過去があったんですね。海ひと筋かと思ってました」
 そういいながら真夏がろくさんの顔を意味ありげに覗きこんだ。
「どうした? あっ、まさかミリ、お前」
 なにかに気がついたようにろくさんが美里の顔を軽く睨んだ。
「聞いちゃいましたよ、ろくさんの由来。いや~、マスターたら、バンドやろうとしてたんですね」
 真夏は笑いながらいった。
「ミリ、喋っちゃったのか」
 ろくさんが問い詰めるようにいった。
「うん、全部話した。だって昨日、真夏ちゃんにも迷惑かけたし」
 そういいながら美里はビールグラスを乾杯するように持ち上げると、そのまま口をつけた。
「美味しい」
「ろくさん、か」
 真夏はそういってくすりと笑った。
「そうだよ、ろくさんだよ。ロクサーヌなのにろくさんだよ」
 ろくさんはやけくそ気味にいった。
「The Policeのコピーやるつもりだったのよ、あのとき。ろくさんが、というか匡一がね、ギターでボーカルもやることになって、唄はロクサーヌがいいって、いいだして、最初の練習のときに歌い出したのはいいんだけど、ロクサーヌって歌えなくて、なんと、ろんさ~んって歌っちゃって大爆笑。もう、メンバー全員吹き出しちゃって、練習にならなくなって」
 美里はほんとうに面白がって笑いながらいった。
「勝手にしろ」
 ろくさんは半ばふて腐れるようにいうと洗い物をはじめた。
「それ、みんな知ってるんですか?」
 真夏が嬉しそうに訊いた。
「いや、ほとんど知らない。だからここだけの話よ」
 美里はそういいながら大きく頷いた。
「ミサトさんって、そのときは?」
「わたし? わたしはキーボード担当。これでも昔はバイエル弾いてたんだから」
 そういって美里は鍵盤を弾く仕草をした。
「でも、ピアノ弾くミサトさん、なんとなく想像できます」
「なんだよ、それ」
「だって、マスター、海ひと筋って感じだったのに。意外です。あっ、これからわたしも呼び方変えますね、ろくさんって」
「うん、それがいい」
 美里はまたグラスを持ち上げて大きく頷いた。
「いい加減にしろ……」
「それで?」
 拗ねたように料理支度をはじめたろくさんを無視するように真夏は美里に訊いた。
「ろくさんったら、バンドは止めだって。で、気がついたらサーフィンはじめてたの」
「なんだか急展開ですね」
 真夏はちょっと不思議そうにいった。
「なんてことないのよ。年頃の男の子なんて、どうやってモテるかってことしか頭にないんだから。だから、バンドが駄目ならサーフィン。単純なのよ、男の子って」
 美里はなにか懐かしむように笑いながらいった。
「えーえー、単純ですよ。で、結局サーフィンだ」
 なかばやけくそ気味にろくさんが口を挟んだ。
「じゃ、それからは海、ひと筋?」
 真夏は美里に訊いた。
「もう呆れるぐらい。周りにもしきりに勧めるし。おかげでわたしまで付き合わされたわ、サーフィン。でも、楽しかったなぁ。朝早くから海に出て、波捉まえて。一本乗れたらいいぐらいの腕しかなかったけど、とにかく波に乗るのが、仲間といっしょに海に入るのがなにより楽しかった……」
 美里は持ち上げたグラスに口をつけるのも忘れていった。
「ミサトさんも海、入ってたんですね」
 真夏が仲間を見つけたように嬉しそうにいった。
「まあね。そんなに長い間じゃなかったけど、いまから考えたら馬鹿みたいに海にいってたかなぁ」
 そういいながら美里はろくさんの横顔をそっと見た。まるで盗み見するように。
「いつも仲間と海か。ちょっと羨ましいなぁ」
「真夏ちゃんは、ひとり?」
 美里が訊いた。
「そうですね。海の知り合いはいっぱいいるけど、海に出るときはひとりが多いかなぁ。なんか、自分の漕ぎのことで頭がいっぱいになっちゃって、だれかとおしゃべりしながらって、ちょっとできなさそうで。不器用なんです、きっと」
 真夏はそういうと照れるように笑った。
「不器用か。それならRough Girlね。そうか、真夏ちゃんって海が大好きなのね」
 美里は頷いていった。
「わたしは逆だった。みんながいないと心細くって。まぁ、そこまでのテクもなかったし、純粋に海が好きっていうよりは、みんなと一緒にってタイプだったのかも。だいたい、いつもろくさんがなんだかしらないけど近くにいたし」
 そういうと美里はろくさんの方を見ながら頷いた。グラスに口をつけてひと口呑んだ。
「Rough Boyって、そうい意味だったんですか?」
 真夏が意外そうな声を上げた。
「まぁ、直訳しちゃうと乱暴者になるけど、あの唄を聴いてるとね、無骨者とか不器用とかそんなニュアンスかな」
 ろくさんが説明口調でいった。
「ろくさん、高校の頃から聴いてたよね、ZZ Top」
 美里が振り返るようにいった。
「まあな」
 ろくさんが頷くと真夏が顔を覗きこむようにして訊いた。
「それ演奏するつもりはなかったんですか?」
「だから、バンドの話はなし」
 ろくさんがきっぱりといった。
「ろくさん、こっそりギターの練習してたけどね」
 そういって美里はくすりと笑った。
「ミサトさんって、ほんとうにマスター──ろくさんと付き合い長いんですねぇ」
 真夏がちょっと羨ましそうにいった。
「腐れ縁……」
 頬杖をつきながら美里は答えた。
「もう、いやんなっちゃうぐらいね」
 そういうと美里はグラスに残っていたビールを呑み干した。
「高校からですか?」
 真夏の問いに美里は大きく頷いた。
「そう、高校に入ったときから。前にもいったかなぁ。わたしたち背がほとんど同じぐらいでね、ろくさんがちょっとだけ高くて」
「ミリ単位の差」
 真夏の言葉に美里は笑った。
「それそれ、ミリ単位の差。おかげでそれからわたしはずっとミリ」
「で、マスターはバンドの練習のときから、ろくさん!」
 そういって真夏と美里はお互いの顔を見ながら笑った。
 ──そうよ、高校のとき。入学式であいつの顔を見たときから……。
 美里は真夏にお替わりを頼むと改めてカウンターの中にいるろくさんの顔を見た。
 ──あのときからあなたのことで頭がいっぱいになってたのよ。年頃の女の娘はいつだって好きな人のことで頭がいっぱいになっちゃう……。
 あなたがわたしの大親友の歩惟と結婚したからって、やっぱり、この気持ちは変えられなかったのよ。
 だからいま……。歩惟が亡くなったいまは……。
 なんだか涙が零れそうになって、美里はテーブルの上に置かれたグラスをやや乱暴に持ち上げて、ビールに口をつけた。
 ──そう、わかってた。もうずいぶん前から。ううん、最初に逢ったときから……。
 ──抱かれたいのよ、わたしは。
 館野美里はそっとろくさんの、木崎匡一の横顔を見ながら心の裡で静かに泣きはじめていた。
はじめから

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ろくさんを逗子では知らない人はいないというサーファー。けれどその過去を知る人はほとんどない。そして、彼の心に深く刻み込まれた傷は、いまだにそのまま。その心の傷は癒えることがあるんだろうか……。

そんな彼とひとり娘にまつわる物語が短編連作の長編で紡がれていきます。
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夕焼けフォトグラファー / 物書き / デジタルコンテンツデザイナーの癌サバイバー、竹井義彦です。 逗子の海の写真や、オリジナルの小説をメインに公開しています。よろしくお願いします。
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