ロング_NOTE

ロングボーダーの憂鬱 2 Rough Boy 1/3

 京急新逗子駅を出て新逗子通りをJR逗子駅の方へ向かって歩くとほどなく左側に半地下の入り口が見えてくる。「Rough Boy」の看板が出ていた。
 階段を降りきってドアを開けると左側にはL字型のカウンターが、右側にはテーブル席が三つ並んでいる。壁は木目が横に走り、飴色にも似たアンダーな色調が店全体を落ち着いたものにしていた。
 カウンターの奥には棚が設えてあり、さまざまな酒瓶が並んでいた。入り口近くにはバーボンやウインスキーなどが並べられていて、店の奥側にはスピリッツ類や焼酎、さらには中には日本酒もあった。
 カウンターの中にろくさんがいる。
 腕組みをしながら向かい側の壁にある時計を見ていた。
 やがて時計の針は17時を差そうとしていた。
 ろくさんはひとり頷くと店内に音楽を流した。ZZ Topの「Rough Boy」だ。この店の名前もここから取っていた。店内に流れるギターのリフを確認すると、ろくさんが声をかけた。
「真夏ちゃん、看板頼む」
 カウンターの窓側で洗い物をしていた千原真夏が大きく頷いた。
「はい」
 洗いざらしの真っ赤なTシャツにデニムのミニスカート。紺色の胸当てのエプロンを着けている。茶色に染まった長い髪を後ろで束ね、化粧っ気のない顔は綺麗に日焼けてしていた。
 そのまま窓側のカウンターの一部を跳ね上げるとカウンターを出て、ドアを開けて外へ出た。半地下の入り口にある看板のコードをコンセントに繋ぐと灯りが灯り「Rough Boy」の名前が薄らと浮かび上がった。夏のこの時間はまだ昼の名残の明るさを湛えている。看板の灯りが意味をなすまでにはまだ時間が必要だった。
 真夏は灯りがついていることを確認すると階段を降りようとしてその足を止めた。
 ドアの前にひとりの男が立っていた。
 薄いブルーのストライプが縦に入った白地のシャツを着ていた。それにベージュのチノパンを穿き、頭にはパナマ帽を被っている。その帽子から覗いている髪は白髪だった。
「あのぅ。どうぞ、いま店を開けましたから」
 真夏はおずおずと声をかけた。
 その声に驚いたように男──老人は振り返ると、真夏の顔をじっと見つめた。
「ありがとう。それではお邪魔するとしよう」
 そういいながら老人は深呼吸をすると、ゆっくりと店のドアを押し開いた。なにか覚悟を決めるように頷いてから、ようやく一歩ずつ踏み出すように店に入っていった。
 いつもなら聞こえるはずのいらっしゃいませの声がないことを訝しがりながら真夏は店に入った。
 店内の音楽も止んでいた。いつもは音楽の絶えない店のはずなのに、このときだけは違った。
 静まりかえった店内のカウンターの真ん中にさっきの老人が、かぶっていたパナマ帽を隣の席に置いて座っていた。
 その真っ正面にろくさんが、しかしただ黙って立っていた。生成りのTシャツに、赤の短パン。エプロンは真夏と同じように紺色だが胸当ての部分はなかった。
 右の掌をじっと見つめていたろくさんは、やがてその手の置き場に困ったのか両手をエプロンの前で組んだ。
 互いにじっと見合っていたふたりだったが、おもむろにろくさんがぽつりと口を開いた。
「おひさしぶり、です」
 老人はしばらくしてからカウンターの上で組んだ手を見ながら答えた。
「あれから、もう十年になるか……」
「はい……」
 ろくさんはただ頷いた。
「なにかお呑みになりますか?」
 ちょっと嗄れたような声でろくさんが尋ねた。
「そうだな、せっかくだからなにかもらおう」
 老人は自分にいいきかせるようにいった。
「なにがよろしいですか?」
 いつにも増してていねいなろくさんの言葉遣いを不思議そうに聞きながら真夏はカウンターの中へと戻った。改めてふたりを交互に見る。けれどそのふたりの関係が真夏には想像することもできなかった。
「なにかお薦めはあるかな?」
 老人の言葉にろくさんはすぐに答えた。
「確か、バーボンを飲まれていましたよね」
「ああ」
 老人が頬を緩めて頷いた。
「それでは、これはどうです。エズラ」
 そういいながらろくさんは後ろに並んでいる酒瓶から、黒いラベルのバーボンに手を伸ばした。
「エズラか……」
「あまり癖のない飲みやすい酒です。一杯目にはこれがいいかと」
 ろくさんの言葉に頷きながら老人がいった。
「では、ロックでもらおうか」
 ろくさんはただ頷くとロックグラスに大きな氷をひとつ入れて、ていねいにエズラを注いだ。グラスをコースターの上に置いて、老人の手元へと運んだ。
「ありがとう」
 老人はそういいながらグラスに手を伸ばした。まずその香りをじっくりと楽しんでから、ひと口飲んだ。
「もっと早く来てもよかったんだが……」
「それは……、わたしこそお伺いするべきなのに……」
 ろくさんがぼそっといった。
「お互いに足が鈍るのも無理はない。なにしろ辛いできごとに違いないから。それを思い出すのもまた心が痛むものだ」
 老人の言葉にろくさんはただ頷いた。
「そろそろ次へ進んでもいい頃だ」
「はい」
 ふたりはそれっきり黙りこくった。
 ただ時間だけが流れていく。
 やがて老人の手の中のグラスの氷がカランと音を立てた。静かすぎる店内だからだろうか、その音は真夏の耳にも届いた。真夏はふたりをただ黙って見ることしかできなかった。
「もう一杯どうですか?」
 グラスが空になっているのを見て、ろくさんがいった。
「今度はなにがいいかな?」
 老人はそういってろくさんの顔をじっと見た。
「では、つぎはブラントンはいかがですか。バーボンにはめずらしいシングルモルトで豊かな味わいが楽しめます」
「では、それをもらおう」
 ろくさんは頷くと酒瓶の中からキャップの台座の上に馬とジョッキーが乗っているボトルを選んだ。別のグラスに同じように大きな氷をひとつ入れると、ていねいにブラントンを注ぐ。飲み終えたグラスと交換するように老人の手元へ置いた。
「会っていきますか?」
 ろくさんの言葉に老人は首を傾げた。
「うん?」
「六時過ぎには夕食を食べにこの店に来ます」
 ろくさんはただ静かにいった。
「そうか……」
 老人はそういいながらグラスに口をつけた。
「いや、いまさら会っても混乱するだけだろう。違うかな?」
「そうかもしれません。けど……」
「いや、じつは海で遊んでいるところを見てきたんだ。たまたま海岸へいったら、そこにいたので……」
 老人は思い出すように顔を上げると、すこし上を見ながらいった。
「いい笑顔だった。面影がすこしあるかな。口元なんかはそっくりに見えたが」
「はい。だんだん似てきたようです。ときどきぼくも彼女の笑顔を思い出してしまう……」
 ろくさんはそういいながら俯いた。
「あの笑顔を見て安心したよ。すくすくと育っていることがよくわかる。大変だったろう、男手ひとつで」
「いや、ぼくはなにもしてやることができていないです。ただ日々、生きてくことで精一杯で、あの子にはなにも」
 ろくさんの言葉に首を横に振ると老人は口を開いた。
「なにも謙遜することはない。大したものだよ。あの子もきちんと育っている」
 ろくさんはその言葉にただ頭を下げた。
「家内が……。家内が病気でな。病院通いをしている」
「そうでしたか……」
「さすがにいい歳だからな、わたしたちも。まぁ、どこかが傷んだとしてもおかしくはないんだが……。よりによってあいつが、わたしより先に病気になるとは……」
 老人はどこか寂しそうにいった。
「今度、お伺いします」
 ろくさんが頷きながらいった。
「そうか。来てくれるとあいつも、家内も喜ぶだろう」
「はい」
 老人は、ゆっくりとグラスを傾けるとブラントンを飲みきった。
「ごちそうさま。お勘定を」
 老人はパナマ帽を被ると立ち上がった。
「いえ、お代は結構です」
「いや、そういうわけにもいくまい」
「支払わせたら、このぼくが叱られちゃいます。あいつに……」
 ろくさんはどこか遠くを見るように答えた。
「わかった。それではご馳走になろう。ありがとう匡一くん」
「こちらこそ。わざわざお越しいただきありがとうございました」
 ろくさんはていねいに頭を下げた。
 ドアが閉まり、老人が階段を登っていくのをじっと眼で追っていた真夏がぼそりと口を開いた。
「誰、なんですか?」
「うん……。美奈海のお祖父さん……」
 それだけいうと、ろくさんはグラスを洗い出した。いつもよりも多めに水を出しながら、時間をかけてていねいにグラスを洗う。
 その横顔を見ながら真夏はそれ以上なにかを訊くことを躊躇い、黙ってしまった。

 静まりかえった店内の重い空気を振り払ったのは祐司だった。ドアが勢いよく開くと、元気な声が店内に響いた。
「いよ」
 祐司はひと言いうと、一番奥のテーブル席に座った。
「いらっしゃい」
 真夏が真っ先に答えた。
「いつもの?」
 真夏が訊いた。
「うん、いつもの」
 祐司が嬉しそうに頷いた。このやり取りが常連にはなによりも嬉しい。いちいち注文しなくても、頼みたいものをきちんと知っていてくれる。それだけで居心地がぐんとよくなる。もっともろくさんと祐司の付き合いの長さを考えれば、いまさら常連扱いをするまでもない。身内といってもいいぐらいだった。
 真夏はビールグラスにサーバーから生ビールを注いだ。傾けておいたグラスをゆっくりと立てていく。最後に泡をきちんと注ぐ。
 グラスをカウンターに置くと、いったんカウンターの外へ出てから真夏は祐司のテーブルへ運んだ。
「なんか静かじゃない? ほら、音楽かかってないよ。ろくさん!」
「あっ、そうか」
 ろくさんが頭を掻いた。
 やがて店内に音楽が流れはじめた。
「やり直し」
 Rough Boy。ギターのイントロが流れ出すと安心したように祐司は生ビールのグラスに口をつけた。
「なにかあった?」
 真夏に声をかける。
「ちょっとね」
 真夏はどこまで答えていいのか判らず言葉を濁すとそのままカウンターの中へと戻った。
 やがて客がひとり、ふたりと入ってきた。いずれも顔見知りの客たちだ。こうやってろくさんの店「Rough Boy」はいつも賑やかな夜を迎えていく。
 店内に流れる音楽はどこまでもろくさんの好みの曲ばかり。アメリカの泥臭いロックが中心だった。Lynyrd SkynyrdやThe Allman Brothers Band。真夏がまったく知らないバンドばかり。この店ではじめて聴く曲だらけだった。
 それでもこの賑やかな店にはぴったりの選曲だった。

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