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ロングボーダーの憂鬱 7 I'm Yours 3/3

 ろくさんはその仕草を眩しそうに見ながら、下を見た。ボードの上に乗っている足にときおり海水が寄せる。その水の感触を確かめるようにして、また顔を上げた。
「昨日の朝、美奈海にオムレツの作り方、教えたんです」
「美奈海さんと一緒だったのね」
「ええ、それでオムレツ食べたいっていうんで、作り方教えながら。そしたら、今朝、美奈海のやつ、オムレツ作るからって」
 ろくさんはそういうととても照れ臭そうに笑った。梨沙がはじめて見る笑顔だった。
「ね、ちゃんと伝わってる。でしょ?」
 ろくさんはなにも答えず、ただ笑顔で頷いた。
「きっと想像以上に美味しかったんでしょうね」
「いや、もう形なんかぐちゃぐちゃだし、あちこち焦げたりしててて、でも」
「ほら、親娘だもの」
 梨沙はそういって微笑ましそうにろくさんの笑顔を見つめた。
 ろくさんはそっと眼を閉じると、今朝のオムレツを食べたときの美奈海の顔を想い出していた。ろくさんを見つめるその視線はいままでになく真剣なものだった。ろくさんが笑顔でおいしいよといったときの喜びようもまた、いつになく輝いていた。
 そんなろくさんを梨沙が優しい眼で見ていた。その視線に気づいて、ろくさんはふいになんだかとても照れ臭くなって、パドルを強めに漕ぐと、梨沙を追い抜いて前へと進んでいった。
 海岸から吹いてくる風がろくさんの髪を揺らす。
 しばらくそうして漕いでから振り返ると、梨沙が必死に追いつこうと漕いでいた。パドルを握る手にやけに力が入っている。まるで息を詰めるようにしてパドルを漕ぐ梨沙。
 ろくさんはパドルを漕ぐ手を休めて、梨沙が追いついてくるのを待った。
 やがて追いついた梨沙は顔を上げると口を開いた。
「なんだか、ろくさんって」
 そういって梨沙はろくさんの顔を見た。
「なに?」
「その足がボードにピッタリと吸い付いているように漕げるんですね」
「そうかな」
「まるでそのボードが身体の一部みたい。ちょっと羨ましいな」
 梨沙はそういってはにかむように笑った。
「なにごとも経験」
 ろくさんは笑顔で返した。
「ボードのせいもあるのかしら?」
「え?」
「だって、そのボードすごく軽そうだし」
「いや、それは違う。逆だよ」
 もうすぐそこは波打ち際だった。ろくさんはそのままボードから降りた。すぐ横で梨沙はいったんボードの上に腰を下ろすと、そっと足を延ばしてボードから降りた。
「そのボードって、昨日、美奈海さんが乗っていたボードよね」
 そういって梨沙は首を傾げた。
「ああ」
「わたしにも乗れるかしら?」
 梨沙はそういっていたずらっぽく笑った。
「こう見えてもちょっぴり負けず嫌いなの」
「だから?」
「だから、試してみたいわ」
 梨沙はそういうと真っ直ぐろくさんの眼を見つめた。
「どうかな?」
 ろくさんはそういって梨沙の顔を見た。
「ちゃんと乗れたら、わたしのお願い聞いてもらいます」
 梨沙は探るようにしていった。
「じゃ、乗れなければ、おれのお願い聞いてもらおう」
 ろくさんはそういうと大きく頷いて、ボードを水際に浮かしたまま、リーシュを梨沙に渡した。
 梨沙はそのリーシュを受けると、ひとつ大きく深呼吸してから右足に巻いた。右手にパドルを持つと、じっとろくさんの眼を見てから、ボードに右足を置いた。
 ボードに乗ろうとして左足を浮かした瞬間、梨沙は綺麗に引っ繰り返っていた。尻餅をついたまま呆然とただ海面に浮かんでいるボードを見ている。
 鳩が豆鉄砲を食ったよう。まるでそういう表現がぴったりすぎるほどの顔を、梨沙はしていた。ろくさんはその表情を見ながらくすりと笑った。
「だからいったろ?」
「ねぇ、もう一度」
 梨沙は頭を振りながらそういって立ち上がると、今度はパドルを手にしたままそっとボードの上に座って乗ってみた。バランスを取りながら、ゆっくりと前を向いた。そのまままず膝立ちになる。ボードの揺れが収まったところで、片膝立ちになり、そのまま立ち上がろうとした。また、引っ繰り返ってしまった。
「なにこれ……」
 同じように尻餅をついたまま梨沙はひとりごちた。
 半身海水に浸かったまま梨沙はようやくろくさんの顔を見た。
「どう?」
 ろくさんはそういって梨沙の顔を見た。まだなにが起こったのか信じられないような表情で梨沙はろくさんをただ呆然として見ていた。
「立つってレベルじゃなさそう。どうして?」
「だからボードが軽いから。バランスを取るのが難しい。気にすることはない。かなり経験を積まないと、この軽さのボードは扱えないかな」
「でも、美奈海さんは……」
「子どもだからね。体重が軽いから、そういう意味では大人が乗るときとは条件がまったく違う」
 ろくさんはそういってまた笑った。
「嫌になっちゃうわ。まったく解ってなかったのね、わたし」
 梨沙はそういうと諦めたように笑った。
「それじゃ、約束どおり」
 そういってろくさんは梨沙に右手を刺しだした。梨沙はなにもいわずにその手を握ると、その手を引き寄せるようにして立ち上がった。
「約束どおりね」
 そういって梨沙は笑いながら頷いた。

 翌週の土曜日の夜。
 ろくさんは梨沙と横須賀にいた。京浜急行の汐入駅から横須賀芸術劇場の横を抜けてどぶ板通りへと向かう。
 ろくさんはTシャツの上にブルー地のシャツを袖を腕まくりして着ていた。それにジーンズとスニーカー。いつもの出で立ちとはすこしだけ違った。
 梨沙はオフホワイトのブラウスにピンクの上着、下は長めのスカートを穿いていた。いつもよりヒールはすこしだけ高めだった。
「ろくさん、こんな時間に大丈夫なの?」
「なにが?」
 ろくさんはそういうと不思議そうに梨沙の顔を見た。
「だってお店が……」
 梨沙はそういうと伺うようにろくさんの顔を見た。
「ああ、臨時休業にしたから」
「お休みなのね……」
 梨沙はそういいながら頷いた。
「じゃ、美奈海さんの晩ご飯は?」
「大丈夫。あいつは今日は友だちの家に泊まることになってる」
 ろくさんはそういって梨沙の顔を見た。
「でも、なぜ横須賀?」
 梨沙はそういうと首を傾げた。流れるようなストレートヘアが顔にかかると、首を傾げたままその髪を手でかき上げるようにして耳にかけた。
「うん、逗子だと知り合いだらけだし」
 ろくさんはそういって苦笑した。
「確かに。ろくさん顔が広いから」
 そういって梨沙も笑った。
 陽の落ちた土曜のどぶ板通りは人通りが多かった。そんな人波に逆らうこともなく、ふたりは並んでしばらく歩いた。やがてろくさんはとある店の前で足を止めた。
 入り口のすぐ横にはいかにも南国をイメージさせる極彩色の絵が飾ってある。脇には人の背丈ほどの椰子の木があった。
「ここ」
 ろくさんはそういうと入り口のドアを開けた。
 梨沙は看板に書いてある店の名前を確認してから、続いて店に入っていった。
 そこには「マウナ・ケア」と書かれていた。
 中に入ると左側にはカウンターが、右側にはテーブル席が並んでいた。なんとなくダイナーを思わせる雰囲気だった。ただ、あちこちに置かれた鉢は椰子がほとんど。店内にはプルメリアの香りがただよい、まるでハワイの店に迷い込んだような気になる。
 ろくさんは慣れた様子で、店の中程までいくとテーブル席を梨沙に勧めた。入り口が見える奥側に梨沙が腰を下ろすと、ろくさんもそれに続いて座った。
「このお店、よく来るの? なんだかとても馴れた感じ」
「そんなに頻繁じゃないけど、横須賀に来るとここかな」
 ろくさんはそういって微笑んだ。
「マウナ・ケアって?」
「うん、ハワイで一番高い山。冬には天辺に雪が積もる」
「え、ハワイなのに?」
「だって富士山より高いし」
 そういってろくさんは笑った。
「よう、なんにする?」
 カウンタの奥から声がかかった。
「いつもので」
「いいのか? 女性連れなのにそれで」
 人懐こそうなマスターだった。
「いつものって?」
 梨沙はそういって首を傾げた。
「うん、ビールとハンバーガー」
 ろくさんはただ頷いた。
「それがお薦めなのね?」
「ああ」
「じゃ、それで」
 梨沙はそういうとにっこりと笑った。
 しばらくするとマスターがテーブルに瓶ビールを二本置いていった。12オンス瓶だった。ラベルには「LONGBOARD」の文字があった。
「これ、ロングボード?」
 瓶を手に取った梨沙がろくさんに聞いた。
「そう、ハワイで定番のビール」
 そういうとろくさんはそのまま口をつけた。
「ろくさんにぴったりのネーミングね」
 そういうと梨沙も瓶に口をつけた。
「美味しい」
 梨沙はそういって微笑んだ。
「ろくさんの店では出さないの?」
「うん、あの店はハワイじゃないから」
「そうか、そこがポイントなのね。確かにこの店はまるでハワイのダイナーみたい」
 そういって梨沙は店内をぐるりと見渡した。
「まあね。ハワイ出身のやつらがよく来る店だし」
「米軍の人?」
「ああ。ネイビーとかマリーンとか」
 しばらくするとマスターが皿をふたつテーブルにおいていった。ハンバーガーが乗っている。その横には零れそうなぐらいのポテトフライが山のように添えられていた。
 そのハンバーガーを見て梨沙が驚きの声を上げた。
「ろくさん、これ、大きい」
「うん、これがハンバーガーだから」
「だって、これどうやって食べたらいいの?」
 梨沙はそういって首を傾げた。
「ハンバーガーはかぶりつく。それが正しい食べ方」
「でも、手に余っちゃう」
 そういって梨沙は助けを求めるような眼でろくさんを見た。
「まず上のバンズ、クラウンを取ってソースを好みの分だけかける。ほら、これが店の特製ソース。あとケチャップとかマスタードもあるから、好みで」
「それから?」
「上から押しつぶして、口に入るサイズにしちゃう。それからこれは好き好きだけど、ひっくり返すと、バンズとパテがずれにくくなる。だからこうして手でしっかりと持って、そしてかぶりつく」
 そういってろくさんはひと口、かぶりついた。
 バーガーが零そうになるのを口で受けとめながらしっかりと食べる。
「ねぇ、やっぱりわたしにはちょっと大きい」
「うん? ちょっと待って」
 そういうとろくさんは梨沙の前の皿を持ってカウンターへといった。そのまますぐに戻ってくる。
「ほら。半分にカットしてもらったから」
 そういってろくさんは梨沙の前に皿を置いた。
「まず、クラウンを取ってソースね。ケチャップたっぷりにしてみるわ。それから上から押しつぶしていいのね。逆さにするとずれにくいか。そしてかぶりつく」
 梨沙はそういいながらカットしたところからかぶりついた。
「どう?」
 じっくりと味わっていた梨沙にろくさんが声をかけた。
「ねぇ、とっても美味しい。これパテが凄いのね。大きいパテが香ばしくって味もしっかりとしている」
「これがハンバーガー」
 ろくさんはそういうと大きく頷いた。
「でも口の周りが凄いことになっちゃう」
「ああ、それは紙ナプキンで拭けばいいよ。手についた分も遠慮なく紙ナプキンを使う。だいたい上品に食べるものじゃないから」
 そういいながらろくさんは何枚も紙ナプキンを使ってみせた。
 梨沙も同じように何枚も使った。
「これ食べ切れそうにないけど」
 梨沙はそういって首を傾げた。
「パテだけできっと200g近くはあるかな」
「大きい」
 梨沙はそういって眼を見張った。
「残った分はテイクアウトすればいい」
 ろくさんはそういって笑った。
 しばらくハンバーガーに没頭していたふたりだったけど、やがて梨沙が口を開いた。
「ろくさん、どうして誘ってくれたの?」
「だって、ボードに乗れなかったし」
「え? 確かに。でもそれが理由なの?」
「こうして向かい合って食事することが大切なのかなって」
 ろくさんはすこし迷いながらいった。
「向かい合って食事をすること?」
「ああ、この前、美奈海と朝、食事をひさしぶりに一緒にしたときに感じたんだ。一緒に食べることの大切さみたいなものを。一緒だから美味しいってことがあるんだって」
 そういってろくさんはすこし照れたように笑った。
「それがハンバーガー?」
「いつも食べているような食事の方がいいかなって。気取ってもなにも解らないだろうし」
「解らないって、なにが?」
 梨沙はそういうと首を傾げた。そのストレートヘアが顔にかかると、首を傾げたままその髪を手でかき上げるようにして耳にかけた。
「うん……」
 ろくさんが言い淀んでいたそのとき、店の奥にあった古ぼけたジュークボックスから音楽が流れてきた。Harry NilssonのWithout Youだった。
 ニルソンの声が聞こえた瞬間、ろくさんはただ押し黙ったまま、眼を閉じた。
「どうしたの?」
 梨沙の問いかけにただ首を横に振った。
 やがて曲が終わると、目頭をそっと押さえてからろくさんはゆっくりと眼を開けた。
「この唄?」
「聴きたくない曲ってのがやっぱりあるんだ。どうしても想い出してしまう……。できたら忘れてしまいたいことだけど、それでも忘れちゃいけないことでもあって……。だから……」
「それはきっと、解るわと軽々しく言葉にしてはいけないことなのね。あなたにとっては、とても重要なこと」
「いつか話せるようになればいいんだけど……。いまはまだ……」
 梨沙はテーブルの上のろくさんの左手に自分の右手をそっと重ねた。それからろくさんの眼をじっと見つめた。
 ろくさんもその視線をきちんと受けとめて、そして見つめ返した。
「ねぇ、出ましょう」
 梨沙はそういって席を立った。
「そうだ、残ってる分、テイクアウトしなくちゃ」
 そういって梨沙はただ微笑んだ。

 どぶ板通りには暖かな風が緩やかに吹いていた。
 ふたりはただ黙ったまま汐入駅まで歩いた。改札を抜けると階段を登ってホームへと出る。しばらくして電車がやってきた。ふたりは相変わらずただ黙ったままその電車に乗った。
 金沢八景駅でいったん降りると新逗子行きの電車に乗り換えた。そのまま終点の新逗子まで、ただ黙って電車に揺られた。並んで座っていたのでときおりその揺れで肩が軽くぶつかった。ふたりはそんなことをまったく気にする素振りもなく、ただ並んで座ったまま黙っていた。
 やがて終点の新逗子に着いた。
 電車を降りるとどちらからともなくふたりは南口に向かった。改札を抜けて、そのままバス通りを歩いていった。すぐに「新逗子入口」と書かれた交差点に出た。
「ろくさんはこのまま川沿いでしょ?」
 右手にテイクアウトした紙袋をぶら下げた梨沙が口を開いた。
「送るよ」
「ありがとう」
 梨沙は交差点を渡ると、そのまま真っ直ぐ歩いた。ろくさんがすこし遅れて着いていく。
「この道をずっと歩くの」
 下を向いたまま歩きながら梨沙がいった。
 しばらく歩くとY字路に出た。そこを右に折れて、さらに歩いてやがて梨沙が立ち止まった。
「ここよ」
 右側にマンションがあった。そこの入り口で梨沙はようやく顔を上げてろくさんを見た。
「また、次はあるのかしら?」
 梨沙はろくさんの顔を覗きこむようにして訊いた。
「ボードから落ちたら」
 ろくさんはそういうとちいさく笑った。
「もう、ろくさんったら」
 梨沙はただ苦笑した。
「ねぇ、押しつぶされるような沈黙というのがあるわ。でも、今夜の沈黙はそれとはまったく違って、なんていえばいいのかしら、もっと優しい沈黙だった」
 そういうと梨沙は右手を刺しだした。
 ろくさんはその手を優しく握りかえした。
「次は、わたしが店を決めるから」
 梨沙はそういうと手を離して、エントランスへと歩き出した。
「ありがとう」
 ろくさんがその背中に声をかけた。
 梨沙は立ち止まると振り返って、ろくさんにいった。
「どういたしまして」
 そのままちいさく手を振ると、エントランスへと消えていった。
 ろくさんは、その後ろ姿をいつまでもただ見続けていた。
はじめから

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夕焼けフォトグラファー / 物書き / デジタルコンテンツデザイナーの癌サバイバー、竹井義彦です。 逗子の海の写真や、オリジナルの小説をメインに公開しています。よろしくお願いします。
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