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美味いコロッケそばの話をしよう。-1.天亀そば-

僕はコロッケそばが好きだ。

賛否両論あるのはわかっている。
「なんでわざわざ、そばにコロッケなの?」と言う声はもっともだ。

たしかに変な組み合わせだよな、と僕も思う。
だからどんなにコロッケそばが好きでも、声高にそれを喧伝しようだとか、コロッケそば愛好家を増やそうだとか、そんなことは思わない。

慌ただしい日常の隙間に、さっと入った立ち食いそば屋でコロッケそばを無造作に啜り、5分で食べ終えて出ていく。
そんな些細な、ちょっとした時間が僕とコロッケそばとの関係だ。

こう言ってはお店に失礼だが、そんなに真剣に向き合うようなものではなく、ただ食べるためだけに食べる、そんな食の在り方だってあるだろう。

少なくとも立ち食いそば屋のコロッケそばというのは、そういうものだと僕は思っている。

神田の立ち食いそば「天亀そば」

JR神田駅を南口方面へ出て、神田金物通りと中央通りが交差する今川橋交差点のすぐそば、駅から徒歩2分といった場所にあるのが天亀そばだ。

ビルの間に突然現れる年季の入った立ち食いそば屋は、まさに都会のオアシス。
しかも24時間営業とくれば、深夜の神田で路頭に迷ったとしても、コロッケそばが助けてくれることはもう間違いない。

僕が天亀そばを訪れたのは、まだ冬真っ只中の1月のことだった。

仕事帰りの20時ころ、中央通りを吹く北風に耐えながら信号待ちをしていたとき、その白い看板がふと目に留まったのだ。

「名代天亀そば」。

その店の佇まいを見た時、僕は直観的に、ここにはあるなと思った。

立ち食いそば屋の中にも、コロッケそばがない店は結構ある。
例えば、大手だと小諸そばにはコロッケそばはない。
立ち食いそば屋を見つけて店を覗いても、必ずコロッケそばにありつけるとは限らないのだ。

だが本当に何となく、天亀そばにはコロッケそばがある気がしたので、僕はするするとその白い看板の下へと吸い寄せられてしまったのだ。

店の前までくると、四角い行灯型の看板にお品書きが載っているのが目に入る。

さっと視線を走らせると、やはりあった。
「コロッケそば・うどん」の文字に一人心の中で頷いて、暖簾をくぐる。

店内は狭く、真正面に注文カウンターがあり、左右の壁沿いに立ち食い用のテーブルが設置されているだけの簡素な作り。

成人男性が3、4人並んで立てば片側が満員になりそうな程度のスペースなので、詰めても10人は入れないほどの広さだ。

僕が入ったときは、先客は仕事帰りのサラリーマン風のおじさんが2名だけだった。

僕が入って来たことを気にする風もなく、黙々と目の前のそばを啜っている。
そうそう、それでいいのだ。
ここはただ手早く小腹を満たすための一時の止まり木のようなもの。
他の客など関係ない。自分がいて、そばがある。それだけでいい。
年齢も性別も関係なく、そばの前では皆等しくただの人間なのだ。

カフェでくつろいだり、MacBookで作業をしたり、友達と他愛もない会話に花を咲かせるのでもなければ、オシャレなダイニングで『映える』逸品に舌鼓を打つのでもない、純粋な食がここにはあるのだ。

壁に向かってそばを啜るおじさんの後ろを通り抜けて、僕が真正面の注文カウンターの前に進むと、田舎のおかんって感じの年配の女性が愛想良く対応してくれる。

もちろん注文はコロッケそば。380円。

30秒もしないうちに提供された丼を覗く瞬間は、ちょっとワクワクするものだ。
一言にコロッケそばと言っても、店によって様々な個性がある。

天亀そばのコロッケそばは、結構濃い色のつゆにネギとコロッケのみというシンプルな構成で、これは非常に僕好みだ。
なぜなら、コロッケとそばのコンビネーションというか、別々に食べたのでは味わえないシナジーに存分に集中できるからだ。
たった5分の間、何物にも邪魔されることなく、コロッケとそばだけを楽しむ。
そういう体験は、シンプルなコロッケそばでしかできない。

コロッケに添えられたネギは、時間経過によってつゆに溶けて食感がなくなっていくコロッケと好対照をなしていて、シャキシャキとした食感がコロッケの不可逆変化をより浮き彫りにしてくれる。

立ち食いそばを食べるときは、ラーメン屋でするようにまずはスープを一口飲むなんてことはしない。

いきなり麺だ。箸を取ったらすぐさま麺を啜る。
立ち食いそばは速さが命の世界だ。ゴングが鳴ったらジャブもフェイントもない。全身全霊で食べる。それが立ち食いそばの風情というものだ。

天亀そばの麺はツルツルとしていて喉越しがよく、弾力やコシがあるというよりは、プツプツと噛み切れるタイプだ。
一口目からしっかりとつゆの味が絡むのも高得点。
こんなことを言うと怒られそうだが、立ち食いそば屋はそば粉の香りを楽しむとか、そんなお上品なことを言う場所ではない。
そばとしてのクオリティを求めだしたら高級そば屋に勝てるわけがないのだから、つゆをたっぷり絡ませてつゆの味をがっつり感じられるのが良い立ち食いそばなのだ。

その点、味濃いめのつゆはとても立ち食いそば然としていて申し分ない。

コロッケのほうは、割ってみるとじゃがいもの他にコーン等の野菜が少し入っている。
プレーンな味で甘さは控えめに感じたが、つゆの味が濃いめだったからという可能性もあるので何とも言えない。

個人的には甘いコロッケはあまり好きではないので、全然OKだ。

コロッケ自体の大きさは少し小ぶりで、その分麺の量が若干多く感じた。

コロッケの断面からそばつゆが染み込み、ホロホロと崩れていくのを逃さず口に放り込むと、何とも言えないジューシーな味わいが広がる。

揚げ出し豆腐やカツ煮のような、揚げ衣がだし汁を吸っている美味さとでも言えばよいのだろうか。

1月の夜風に冷えた頬がコロッケそばの湯気で癒されるのと同時に、腹の中からもホカホカと温めてくれる、この満足度で380円。
最後に一口二口つゆを飲み、ごちそうさまと声をかけながら食器を返却して、そそくさと店を出た。

よし、これで何の憂いもなく家に帰れる。

自動車にガソリンスタンドが必要なように、人間には立ち食いそば屋が必要なのだ。

コロッケそばはハイオクというより軽油かな、いやそんなことはどうでもいいか。

そんなことを考えながら、僕は神田駅の改札を通り抜けた。

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