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おじいちゃんの傷。

 母方の、おじいちゃんの命日が近いです。それでなのか急に思い出したことがあるので書いてみます。

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 おじいちゃんはまさに山の男って感じで、体格もよかったし性格も穏やかで明るくて、会うたびに安心感をくれる人でした。住んでいる家も本当に山奥だったから野菜を作ったり、バイクで少し山をおりて仕事をしたり、木のこぶを削って何かを作ったり…。ご近所の人とも折り合いがよかったと思います。お葬式にはびっくりするくらいの人が来てくれていました。山のふもとの郵便局の方まで、亡くなったと聞いて残念だと言ってくれたりしました。わたしもとても寂しくて、お葬式にはこれでもかというくらいの涙が出ました。

 でも、1回だけ、おじいちゃんに対して嫌な気持ちになったことがあるんです。今から20年くらい前のことです。まだITなんて言葉はなくて「コンピュータ」という言葉が主流の時代です。

 わたしと同い年のいとこ(男の子)は、コンピュータの専門学校を出て、コンピュータとはまったく関係のない仕事についていました。わたしは高卒で、電気系のCAD(コンピュータを用いて設計をすること)を使う仕事についていました。わたしはほとんど勉強しないでいきなり現場に出たんです。わからないことだらけで大変だったけどなんとか続けていて、それが少し自信にもなっているときでした。

 そのときにおじいちゃんが「(なんであれ)学校を出ている人がえらい」と言ったんです。それでわたしは気になっちゃって「学校を出てなくても実際に仕事できたりしているならいいじゃない」みたいなことを言ったんですね。それでも「学歴のあるものがえらい」と言ったんです。

 本当にショックだったし、なんでそんなこと言うの?!って怒りにもなりました。わたしだけじゃない、世の中にたくさんいるわたしと同じような状況の人に対してすごく失礼だって思いました。

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 本当に大好きなおじいちゃんだったけど、どうしてもこれだけがずっとひっかかっていたんです。それで、今朝ふと気付きました。あぁあれは、おじいちゃんがもっていた傷だったんだって。

 おじいちゃんの実の弟(次男)がものすごく頭のいい人で、小さいうちから知り合いの人の家に預けられてたくさん勉強していい学校を出たそうです。戦争のときも重要な仕事をしたみたいです。わたしにとっては穏やかな大おじさんでした。でもおじいちゃんと全然タイプが違う人。きっと、あの山奥の家やご近所で、長男だったおじいちゃんと、頭がよくて有名な次男は、事あるごとに比べられていたんじゃないかなって。おじいちゃんの両親がそんなふうにしていたかどうかはわからないけれど(比べるつもりはなかったかもしれないけれど)、子供の方は本当に純粋に傷ついてしまうんですよね。それがおじいちゃんになって、孫も大人になって働いている、それだけの時間が経ってもまだ傷は癒えていなかったんだとわかったんです。

 おじいちゃんはあの山奥での暮らしを本当に楽しんでいました。山にある木や岩、川や滝、小さな植物…。本当に愛していたと思います。それなら、そのことを自分の絶対的な核にしちゃったらよかったのに、と思うんです。弟がどんなに頭が良くて世間的にすごい人であっても、自分は自分で、この場所でちゃんと生きているって、自信を持っていられたらよかったのに。そしたら、わたしにあんなことを言わないで済んだんじゃないかって。「学歴のあるものがえらい」と言ったときのおじいちゃんの心の中は、苦々しくて、つらくて、嫌な気持ちだったんだと思うんです。今は、わたしはそんなこと言われたくなかったと思う気持ちよりも、それを迷いなく言ってしまうことになったおじいちゃんの気持ちの根っこに寄り添いたいなと思いました。わかる。わたしも高学歴(大学院卒)の人たちの中で働いたことがあるからわかるよ、おじいちゃん。それが身内の中での出来事なら本当にきついよね。兄弟だから、心の底から嫌うこともできないしね。

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 人の心の中の傷は、ものすごい力を持っていますね。最近「傷」についてよく考えています。家系っていうのは傷を受け渡すものなんだなって。その傷を家系の中の誰かが、いつか終わりにできるまで続くのでは?と思ってしまっています。そんなからくりは嫌だと思ったこともあったけど、でも、それは傷だから。本質やその人そのものの大事なところが損なわれているんじゃないから。思い込みや誤解から生まれている傷がたくさんあると思うんです。その小さな傷を少しずつでも癒せたらいいなと思うんです。

 うまく書けたかわかりませんが…。読んでいただいてありがとうございます。


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