「月の骨」と津原泰水フェアと
好きなものを、好きだというためだけの文章。
学生のときに「葦屋家の崩壊」シリーズや「11」や「奇譚集」などを読み漁り、でも最近はなんとした理由もなくその著作に触れてない。
このくらいの距離感で津原泰水さんのファンというのもおこがましいなと思って、津原さんと幻冬舎さんとの一連のやりとりについては、逐一追いながらも、なんの意見もSNSで発信しないようにしてました。
そんな折の話。
先日、観劇のために高円寺に降りました。少し時間が空いたので書店に入ると、そこでは店の小ささにしてはかなりの面積を使って「はじめての津原泰水ミニフェア」なるものを開催していました。
学生時代に僕が読み漁ったタイトルはもちろん、最新作「ヒッキーヒッキーシェイク」までのあらゆる作品を網羅し、どの作品から読んでほしいか、読者のタイプ別にお勧めする丁寧なポップまで展開していて、書店員さんの並々ならぬ熱意のようなものを感じてなりませんでした。
どういうわけか今は俳優をしておりますが、高校時代は出版社で編集の仕事をすることに憧れていました。もちろんあらゆる仕事に売上という数字は大切であるという前提があっても、本の仕事には「自分の好きなもの(人)を推せる」という楽しみを、何も知らないながら感じていたからです。
書店員になった兄が「ウォーキング・デッド」が始まった時期に、楽しそうにアメコミの棚を趣味丸出しで展開していた(しかも単価が高いので売上にはめっちゃ貢献した)姿を見て、やっぱりそれは楽しそうでならなかった。
そのときの兄の姿を思い出してか、そんな夢を抱いていた出版の世界の騒動やそれに対する色々なリアクションを見て感じたモヤモヤした気持ちからか、書店員さんの企画したであろう津原泰水フェアに並ぶ本達は輝いて見えた。久しぶりに読もうかと思い、でもなんだか今読んで感想とか書くのもタイミング的にできすぎかなかなぁ、みたいな下らない気持ちも同時に抱いてしまい、結局「ヒッキーヒッキーシェイク」を買わずに出ました。
代わりに家に帰ってから開いたのは、面倒くさいことにジョナサン・キャロルの「月の骨」。そう、ジョナサン・キャロルといえば、津原泰水さんが敬愛している作家。代表作のシリーズの一作目なのにずっと積んであった「月の骨」。前に古本屋で見つけた旧版のカバー。
「月の骨」もまあ何ともかっこよく面白く泥臭くステキな作品だったですし、「熱々拇指」とかいう翻訳センスまじで最高(翻訳は故浅羽莢子氏)とかたくさんあるんですけど、とりあえず詳しい感想は割愛します。
読んでる間ずっと不思議でした。頭の一方で「月の骨」を楽しみながら、別の方では津原さんの本のことばかり思い出していました。
スーパーラットを「超鼠」って読ませるセンスとか。
「クラーケン」のラストとか。
「天使解体」ってタイトルの素晴らしさとか。
あの船は、確かに美しいと感じられたこととか。
そうだ。久生十蘭にハマったのも「津原泰水の本棚」の中にあったからだ。現代の「文体の魔術師」は津原さんだよな間違いなく。
そんな色々。
多分、今読んでなくても、当時の僕には間違いなく大切な読書体験だった。山尾悠子さんや津原泰水さんの本が、僕の灰色に寄り添ってくれた。
歳を重ねて忘れかけてた気持ちにふと色が塗り直された。大切な本は、いつまでも大切だ。それが、今は通り過ぎてしまったように距離があったとしても。「好き」というのに何一つ恥じることはないはずだ。
折しも、先日参加した戯曲会で読んだ、木下順二の「蛙昇天」。そのなかにこんなセリフがありました。
「やっぱりいいたいと思ったことは、口に出して言うべきなんだ」
まさに今の心情とバッチン噛み合ったような気分で。
今も僕は本が好きだ。
出版の世界のことに詳しくはないけれど、1人の本が好きな人間だ。本に救われてきた人間だ。
好きなものを好きだと言うことを、とっても難しいと感じてしまう僕のような人間にとっては、誰かへの好きを表明するのは勇気がいることだ。
けれど、言うべきだと心から思った。だって面白いじゃんか、津原さんの本。少なくともそれは今も昔も変わらないじゃないか。その声が、刺さるべきところに刺さり、届くべきところに届くと信じて、言いたいと思ったことは、やはり言うべきなんだ。きっと、何に対しても。そしてお芝居と同じように、本の価値は読んだ人が決める。
だから胸を張ってちゃんと言おう。
僕は津原泰水さんの本が好きだ。
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