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テッド・チャン『息吹』(早川書房)

第一短編集『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫SF)から17年が経過し、第二短編集である本書が2019年12月に大森望訳でようやく刊行された。本書を待ちわびていた読者も多いことだろう。とにかく寡作な作家なのだが、作品一つ一つが深い洞察に裏打ちされており、SFを読んでいてよかったなぁという気持ちになる。

本作に収録された9編の中・短編はどれも稠密で、読み手はじっくり文章を味わいながら、作品世界に没入することが求められる。一言でいうと、最上のサイエンス・フィクション(オバマ元大統領も評しているが)なのだ。

本作は「蓋然性」や「不確実性」から逃れることのできない我々が、いかにしてその制約条件のもとで、何かをなし得るのかというお話(「商人と錬金術師の門」「予期される未来」「不安は自由のめまい」)、ミクロコスコスからの世界の秘密の発見(「息吹」)、人工生命の自律の問題(「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」)、文字と伝承をめぐる物語(「偽りのない事実、偽りのない気持ち」)、初期条件によって人はどのように成長するのかを考察した話(「デイジー式全自動ナニー」)、我々の傍にいる知的生命体の話(「大いなる沈黙」)、神の存在について(「オムファロス」)など、時間や文明、人間以外の知的生命体の存在について、深く我々の認識を揺さぶるSFばかりである。

表題作「息吹」は山尾悠子の「遠近法」の腸詰宇宙とエドモンド・ハミルトン「フェッセンデンの宇宙」のカタルシスを感じさせる静謐な世界の滅びを描いた作品だ。徐々に世界が終わりに収斂していく状況が、二つの肺に空気を満たす機械人たちの中に感じる。クリスタルのような怜悧な世界観の中で、不均衡状態から均衡状態へと宇宙が変遷していくプロセスに、バラード的な几帳面さを感じた。

そのほか印象的だったのはやはり「商人と錬金術師の門」「予期される未来」「不安は自由のめまい」であろう。ゲームの木における始点と終点が固定しており、遡及するプロセスは分岐する可能性があるが、結末は変わらないというところが実に興味深い。ゲームに参加している人々にとっては、自分たちがワームホールを利用したり、プリズムを利用することで最適な行動をしているという自由意思を持っているように思えるのだが、実は自然という別のプレイヤーが蓋然性によって支配しており、結果は変わらない。つまり自由意志という幻想を容赦なく破壊してくれるというテッド・チャンなりの回答がなされているといえる。様々な歴史は、あくまでも自然が決定していくものであり、我々はその環境のもとで生きている存在であるということを痛感させられる。特に「不安は自由のめまい」で行われる並行世界の設定は、対照群の自分との比較が行われ、結果が分岐していくような感じになっているのが面白い(とはいえ、現実世界のシミュラクラみたいなものではあるが)。つまり我々の可能性というのは、単に偶然の産物であることが強調されていて、パラメターを多少変更しても、結果は頑健であるということになる。

9編の短編はどれも我々の世界観をいい意味で揺るがしてくれるだろう。これだからSFを読むのはやめられない。

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