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日本の腐敗とその現状について考えてみた:公正さとは?

はじめに

SNSやtwitterでの議論を見ると、安倍政権の評価には賛否両論があるが、倫理や高潔さに無関心な人たちの発言も多くあり、衝撃を受けている。我々の社会を構成する基盤ともいえる「公正」「正義」といった社会の健全性を保つために不可欠な理念をズタズタにしたことで、日本に深い亀裂が生じている。

現政権が7年8か月の間に起こした様々な疑惑や事件に対して我々は目を背けず、追及しなければならない。説明責任に対して不誠実に対応し、国民の関心を逸らすやり方は、政権自体が、「ご飯論法」に代表される論点外しで逃げていると指摘されても仕方がない。その結果腐敗に対して冷笑的で、無関心な日本社会と化している(と少なくとも書き手の私は感じている)。政官財で蔓延する縁故主義とそれに随伴する腐敗により、我々は腐敗が当然である状況を無意識に規範として受容している。そんな状況を打破するためには、腐敗の本質とその問題点を皆で理解し、腐敗を可視化し、不誠実と戦っていくための仕組みを国民全体で考える必要がある。

長期政権となった安倍政権への支持

連続在任日数は大叔父の佐藤栄作元首相を抜き、歴代第一位になった安倍晋三首相。惜しまれながらも2020年8月28日に、健康問題で辞任することになった。長期政権となった安倍政権。その功績は総じて雇用(非正規雇用が大半)を増やし、経済を安定化させたことにあった。だからこそ国民からの支持もあり、衆参両院で多数をキープし、政権運営を長期にわたって担ってきたといえる。しかしながら乱暴な国会運営などが目立ち、権力の抑制とチェック機構である野党も頼りない中で、現状維持を望む人々は安倍政権を支持している。言い換えれば、現政権を支持をしているのは明らかに利益を得ている人たちや、生活に余裕がなく思考停止に陥っている人たちと推察できる。特に低所得の状況であれば、生きるための仕事をせざるを得ず、時事問題や政治については二の次になるだろう(例えば吉川ばんび(2020)『年収100万円で生きる』(扶桑社新書)を読むと、生活困窮に陥っている人たちのリアルな姿を知ることができる。彼らの関心は、その日の仕事をし、生き延びることにある)。

長期政権となるにつれて、政官財を巻き込んで様々な公私混同が見られるようになり、我々の税金が適切に使われてないのではないか、と心配している人々が増えている。

官邸官僚の暗躍

長期政権の弊害もあり、COVID-19禍の中で、官邸官僚による公私混同、民間企業やその利害関係者が政府や官僚組織に対して、法制度や政治政策の変更を行うことで、自らに都合よく規制を設定したり、または都合よく規制の緩和をさせるなどして、超過利潤を得る行為であるレントシーキングの案件が目立つようになってきている。

例えばアベノマスクと揶揄される布マスク2枚配布案件、Go toキャンペーンなどを見れば明らかだろう。国民にとって真に取って必要と思われる(少なくとも首相はそう思われていたようだが)政策が行われず、官邸官僚にとって省益を代表するような政策が行なわれたことに対して、与党政治家も抑制せずに(野党は検証と反対をしていることは明記しておく)政策を行い、世論からの反発を受けたことは記憶に新しい。今回のCOVID-19禍のもとで、現政権は国民の命を蔑ろにし、自分たちのためにだけ税金を使っているとしか思えない案件が多くみられるようになっている。

官僚、政治家のゾンビ化

元経産省の官僚だった古賀茂明氏は、AERA.dot(2020年9月1日)に「安倍首相辞任でお気の毒な官邸官僚」という記事を寄せているが、氏が指摘するように、消防士型の官僚がいなくなり、中央エリート型官僚が官邸官僚として総理の背後で自分たちの自己実現のために政策を行うようになった弊害が如実に現れている。そのことは、まさに秦の宦官趙高が生み出した空気を現代日本に復活させた。官邸官僚にあらゆる情報が管理され、官僚たちは出世のためにそれに盲従。公文書は破棄、改ざんされ、国会でも記者会見でもはぐらかし答弁が横行している。官僚は公文書に依拠して自分たちを正当化するのだが、その正当化の存在を保証する公文書を改ざんする。公僕としての存在意義を失い、権力者の腐敗を正当化するために生きる存在と化してしまった。国会答弁においても、官僚からのカンペを読むゾンビ大臣。自分の言葉を発せず、しばしば官僚の作成した文章をプロンプターを見ながら読み上げる首相。自分の言葉で語れないのは、思考停止したゾンビである。ゾンビたちに政策を行わせる国と化してしまった日本に、腐臭が辺り一面に漂っている。

権力は腐敗する

権力は腐敗する。」この言葉は、19世紀イギリスの歴史家ジョン・アクトン卿が述べた言葉である。「権力は腐敗する」ということを具現化した疑惑事件は、長期政権となった安倍政権下において、特にこの数年間顕著になっている。

過去を振り返ると、森友学園、加計学園問題ペジーコンピューティング、桜を見る会、伊藤詩織さんのレイプ事案のもみ消し案件、統計改ざん、公文書改ざんなどの公文書管理問題、東京オリンピック贈賄疑惑、IR汚職、アベノマスクと呼ばれるマスク業者選定事案、そして最近では持続化給付金事業の委託問題、現役議員の贈収賄疑惑が挙げられるが、過去の自民党政権のスキャンダルと比較しても、内閣総辞職を何度やっても足りないぐらいの状況である。ましてや、国民を代表する政治家には、国の統治という観点から見ても、より高い倫理観を求められることを勘案すると、言語道断の行いである。

ゾンビのように蔓延する腐敗

ではなぜこのような状況が続いているのか?この腐敗の状況を積極的に支持する層がいて、彼らがマスメディアを篭絡し、我々の関心を腐敗から逸らしてきた。また国民の倫理観も「正義」「公正」のプロセスよりも、パンをくれればよいというスタンスに変化してしまった。

ある問題に対してSNSの発言を散見していると、自分にとって「快か、不快か」の立場から反対を表明する発言者が多く、熟議によるプロセスがないがしろにされている。SNSによって、自分と同じような考えを選択し、自分の信念が強化されるエコーチェンバー現象により、冷静な判断が失われているる状況では、あからさまな腐敗行為が「快か、不快か」によって判断される。倫理的な問題として腐敗が自分たちに関係がなければ問題ないとする状況が、安倍政権下では進行した。そのため消極的に政権を支持する人たちが増加し、そのことにより「公正」「正義」の理念が失われてしまったのだろう。

腐敗は腐敗であり、権力が腐敗すれば、自己存在のためにとことん腐敗し、人々までもが腐敗していく。そしてそれは知らぬ間に人々の冷笑的な対応に現れ出てくる。このことは、まさに腐敗が当然の世の中になり、先人たちが苦労して定めてきた法や制度を破壊し、果てには日本語の意味や都合の良い歴史への改ざんという形に変容していく。これこそが腐敗の最終形態である。そしてさらにこの状況は悪化の一途をたどり、人々は腐敗を日常のルールとして受け入れることになる。だからこそ我々は腐敗に対して寛容であってはならず、どんな場合でも是認できないという態度が求められる。なぜ腐敗が問題なのか、それは腐敗が中長期的に見ても、我々の社会に大きな損害を与えるからである。我々は腐敗に対して、「冷笑家」であってはならず、徹底して腐敗と対峙しなければならない(レベッカ・ソルニット(2020)『それを真の名で呼ぶならば: 危機の時代と言葉の力』(岩波書店)を参照のこと)。

ゾンビ化した人たちと高腐敗均衡

世界の一部の国々で起きていること。それは政府部門の腐敗の蔓延である。現在世界中で起きていることは、私利私欲しか考えない能力の低い人材を雇い、定めていたルールを改ざんし、自分の都合の良い形で解釈し、国民からお金を厳しく取り立て、自分たちの身内のみに利用する。通常であれば、民意が反映されて、腐敗した政権は下野することになる。しかしながら、マスメディア・専門家たちの癒着などで、そのような状況が成立しないケースが長期化する腐敗政権の登場につながる。そうなると人々も腐ったリンゴ状態、すなわち腐敗をしないと損をしてしまうという均衡状態に陥ることになる。これが「高腐敗均衡」と呼ばれる社会である(詳細については、レイ・フィスマン&ミリアム・A・ゴールデン『コラプション』(慶應義塾大学出版会)を参照のこと)。こうなってくると、内部からの変更はなかなか難しくなる。

腐敗のコスト

古来より、我々は腐敗による人災によって、様々なコストを支払ってきた。それは古今東西の事案を見ても、腐敗を理由にした数えきれないほどの人災が起こっている。殊更、災害大国である日本においては、天災+人災という最悪の組み合わせが起こる可能性がある。

小山田英治(2019)『開発と汚職』(明石出版)によれば、過去10年間でも、少なくとも70人以上の国家元首や閣僚が逮捕され、6割以上が汚職・腐敗事件が原因とされているという。また大規模な民衆運動のきっかけは失業や不景気であることが多いが、その背景には汚職の蔓延という不正義が存在することも多い。

ビジネスの許認可に関与する役人・政治家の腐敗・汚職の問題は民間の経済活動を阻害し、資源配分の効率性を歪め、その結果国家開発の大きな妨げになることが知られている。特に開発途上国では顕著ではあるが、このような大きな腐敗事案は、先進国においても観察される。政府調達をめぐる官製談合、特に政治家や官僚が政府プロジェクトの企業の選定に関与し、利益供与を受ける政治腐敗についても各種報道機関による報道から知ることができるだろう。

これを一般化すると、官僚は規制を使うことでレント(超過利潤)を生み出す一方、稀少な資源自体を獲得するために企業や個人は潜在的な腐敗・汚職をするインセンティブを生み出している。しかしながら、短期的に腐敗・汚職は官僚の作り出した煩雑な規制を回避するために利用され、一時的に効率性を高めうるが、長期的な視野からは、腐敗・汚職によって獲得したレントを継続して得るためにより多くの無駄な規制が作られる恐れがある。こうなると、腐敗が継続していく可能性があり、民間の利益を代弁するために規制を撤廃し、そこに参入し、関与するという個人が出てくる。

腐敗の共存関係と官僚制度の崩壊

現政権下での問題は、かつて最強の組織であった「官僚組織」が、人事権を掌握され、為政者の意向に沿って働くことになったことにある。つまり、官邸の意向に忠実であれば、不正を行っても良いというマインドセットになってしまった。本来であれば、国民の奉仕者であるはずの中央官僚の一部が、政治家の目的のために、あるいは逆に政治家を利用し、官僚組織自体をコントロールしている点にある。そのことは、戦後から変わらない公文書に対する姿勢を見れば明らかである。

官僚組織において、「記録」がすべてである。記録を参照しながら、前例を見つけ、法案を審議する。その記録を改ざんするというのは、官僚組織の死である。つまり、官僚組織が自分たち存在意義である「記録」である文書を破棄し、為政者のために公文書化せず、隠蔽するケースが観察されるようになった。時の為政者の行動は、まさに検証のために必要な歴史である。ところが毎日新聞等の調査によれば、各官公庁は公文書管理を徹底せず、「私的なメール」「1年未満で破棄する文書」「不存在」などという情報管理を徹底し、為政者の行動を検証できなくしている状況にある。これは、公文書等の管理に関する法律の第一条の目的にも反しているともいえよう。

透明性の確保

文書管理が徹底していない現状は、民主主義の根底を揺るがすことである。情報の透明性を徹底することが「腐敗」防止対策にもなることも様々な研究成果からも明らかである。政府の信頼が高く、政府の透明性が高いスウェーデンの政府事例は参考になるだろう。2017年の段階で、日本の政府に対する信頼は36%と低く、大勢の人々が政府を信頼していないということが見て取れる。 

政治家と専門家の倫理観

特に政治家は有権者の選挙によって選ばれた代表である。日本において、その代表たる政治家には、大きな権利が与えられている。選挙に敗北すればその権限は失われるが、政治家には国民が納める税によって生活が可能になっているということを強く意識した上で、高い倫理性が求められるということを理解してほしい。一方で、官僚は政治家のような選挙による落選という状況がない分、身分保障がしっかりしている。その代わり、やはり高い職業倫理が求められるのは官僚である。ところがそのことがどうも崩壊しつつあるのが、日本の現状なのではないだろうか。それは利益相反のある学者についても同様である。

利害関係者の排除

映画「インサイド・ジョブ」で、世界金融危機で一部の経済学者が投資銀行等に有利なレポートを書き、多額の献金を受けていたように、日本においても「インサイド・ジョブ」のような状況がないとはいえないだろう。まずは我々の税金を原資とする巨大な国家予算について、官公庁が国家のシロアリのごとく利用することについて、精査し、対策として誤っていることを指摘するのが筋ではないだろうか。さらに現政権では外資誘致などを謳う国家戦略特区などの規制緩和が特区という鳴り物で行われたが、「国際競争力」を高めるための規制緩和が効果的だったかどうかといえば、結果は惨憺たるものであった。2020年版IMDの世界競争力ランキングでは、34位という評価になっており、前年度よりも順位を下げている。 つまり鳴り物入りのサプライサイド重視の経済政策がうまくいかなかったことへの証左である。我々は「専門家」の顔をした利害関係者を排除し、様々な分野を見据えた国家運営をしていく必要があるだろう。

我々は何をしなければならないのか

メディアは権力に阿ねらず、時の政権がどのような行動を行っているのかしっかり監視を続けることである。そのため、高い職業倫理感をもって、政権との癒着がないようにすることである。実際、政権運営についてしっかりと批判や検証を行っているのは、首相との会食をやめたメディアである。同時に利害関係者を有識者と称して、専門家委員会などに入れないなどの方策も重要である。利害関係者はレントシーキングを行う可能性が高く、自分たちに有利な形で政策が行われる恐れがある。そのため、バランスの取れた有識者会議を第三者と官僚システムから選ぶべきである。また専門家の意見を自分たちの利益のための理由付けにするのではなく、検証した上で実行する必要がある。これは新型コロナウィルス対策における首尾一貫していない政府の政策を見れば明らかだろう。政府は丁寧な説明が必要であり、情報を公開し、国民の不安を払拭しなければならない。

まとめると、安倍政権下での政策では評価できるものも多い。しかしながらそれ以上に立法や行政の在り方を自分流に歪めてしまったという点を問題であり、きちんとした説明責任を果たさない限り、「不誠実」と言われても仕方はない。不誠実な社会には不誠実な規範が蔓延り、一部の人々のみを優遇するルールへとつながってしまう。

そして何よりも重要なのは、我々の社会にとって大切な「公正」と「正義」の理念の再共有にある。結果が良ければ公正でなくてもいいというのは、公正ではない。経済学においても、競争の前提には「公正」なルールが必要である。分断化し、階層化した社会を「公正」と「正義」の理念で再結合していくことが、今後我々に求められている。


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