「男性としての加害性を自覚した男性による女性に対する謝罪」についての雑感

 男性がフェミニズムの考え方に触れたりジェンダー論について書かれた本を読んだりなどしたときの反応には、いくつかの典型がある。

 典型的なものの一つが、「フェミニズムなんて認められない」「ジェンダー論なんてうそっぱちだ」といった全否定の反応だ。これに関しては、フェミニズムやジェンダー論の内容について具体的に触れてそれについて考えた末に全否定になる場合もあり得るだろうが、大半の場合には、全否定する人はフェミニズムやジェンダー論の上っ面だけにしか触れていなかったり全く内容を理解できなかったりするのにイメージだけで判断している。こういう反応はフェミニズムに限らずマルクス主義とかエコロジー主義とかいろんな主義や理論に対してよくなされる反応ではあるのだが、このような反応がなされることは残念なことであるには違いない。

 典型的な反応の二つ目は、フェミニズムやジェンダー論が「女らしさ」そして「男らしさ」を否定していることを知って、「自分は"男らしくない"と言われてきたり男らしさの呪縛に苦しんできたりしていたが、ありのままの自分や自分の生き方を肯定してくれる考え方を知ることができてよかった」とか「"男らしさ"というものは虚構であることを知れて、自分は社会の押し付ける性役割に従わなくてよいのだということを発見して目から鱗が落ちた」といったタイプのものである。フェミニズムやジェンダー論は女性だけでなく男性(つまり、自分)にとっても有益な理論であると認識したために、 フェミニズムやジェンダー論を肯定する、ということだ。…これには文句を付けたくなる人も多いだろうが、反応としては無難であるし、生産的で建設的にもなり得る反応だ。すくなくとも、「男らしさ」という概念を相対視したり性役割的な社会規範を疑問視したりすることができる男性であれば、「女らしさ」や女性としての性役割を女性に押し付ける可能性は低くなる。自分の「男らしさ」だけを否定しておいて女性には「女らしさ」を期待するといったご都合主義的で一貫性のない態度を堂々と正当化できる人は、そうそういないからだ。

 そして、もう一つの典型的な反応が、「男性としての自分が持っている特権や男性として加害者性に気が付いて、罪悪感を抱く」というものである。こういう反応になる男性は、フェミニズムやジェンダー論の議論のなかでも女性の「被害者性」を強調した部分に注目をしている。つまり、歴史的にも現行の社会制度的にも女性は常に男性よりも不利な立場に立たされてきたことや、フィクション作品やメディアなどにおいて女性の主体性が奪われた表象ばかりがつくられていること、女性は日常生活においても性暴力の不安に常にさらされていることなどを知らされて、その責任は「家父長制」や「男性社会」にあると教えられる。そして、家父長制や男性社会においてマジョリティであり特権をもたらされる「男性」という属性を自分が持っていることに気付いて、自責の念にかられる…。

 

 私がこれまで諸々の本を読んだりネットの記事を読んだりしてきた限りでは、男性によるフェミニズムに関する議論は、上述したなかの二つ目の反応、つまり「フェミニズムやジェンダー論は男性も"男らしさ"から解放する」という出発点に基づいた議論が主流であってきたように思える。そのため、「君もフェミニズムやジェンダー論を学んで呪縛から解放されよう」という風に男性から男性へと呼びかける議論も多く見られてきたし、「男性学」という分野も成立した。そして、フェミニズムやフェミニストは、ジェンダーからの解放や男女平等という同じゴールに向かって肩を並べて共闘する、対等な仲間のように表現されてきたはずである。

 しかし、ここ数年では、「自分の男性としての加害者性に気が付く」という反応に基づいた議論が目立っているようだ。たとえば、男性の特権性を解説する議論に触れたり女性の被害経験について書かれたフィクション作品を読んだりした男性が、自分の立場の加害者性について告白してこれまでそのか加害者性に無知であった自分の罪について「懺悔」する、という形式のツイートなりブログなりエッセイなり書評なりをちらほらと見かけるようになった。「男性学」の内部においても、「"男らしさの呪縛"ということについて云々するのは被害者ぶっていて甘えた考え方だ、それよりも自分たちが男性であることで与えられている特権や履かされている下駄を明確にする議論を行うべきだ」という問題提起を行う論者が目立ってきているようである。


 さて、(これまでの書きぶりでわかると思うが)私は「男性の加害者性」について悩んだり懺悔したりするタイプの議論は、好ましく思っていない。

 好ましく思っていないことにはいくつかの理由がある。

 理由としてまず大きな部分を占めるのが、理論や事実認識に関する見解の相違だ。フェミニズムが主張するように「女性は歴史的に不利な立場に立たされてきて、現行の社会制度においても不利な立場に立たされている」ことや「女性は暴力被害のリスクにさらされていること」、そして「男性は女性に比べて不当に特権を得ていること」などなどは、事実であると認めよう。しかし、それらの事実が成立した原因を分析される際に持ち出される「家父長制」や「男性社会」などの用語とそれに関する理論については、大半の場合は問題含みであり色々と怪しいところを含む理論であるために、私には納得がいかず認められない。そのため、「家父長制」や「男性社会」とそれに付随する加害者性なり責任なりが自分にある、と認めるまでいかないのだ(前提となる理論が認められないのだから)。


 次に、自分が"男性であるから"自分が加害者であると認識して謝罪や懺悔を行うことは、女性たちを"女性であるから"被害者であると定義付けすることの裏返しである。一般論として、誰かのことを「被害者である」と一方的に定義付けたり、特定の属性を「被害者である」と勝手にカテゴライズしたりすることは好ましいことではない。そして、世の中には「被害者」という自己認識を多かれ少なかれ抱いている女性は多数いるだろうが、そうではない女性も多数いるのである。

 とはいえ、ここは複雑なところだ。ある人がある属性を持っていれば本人が認識していなくても理論的に被害者と定義付けられる、ということはあり得るだろうし、その理論が妥当である場合もあり得るだろう。ただし、その場合の「被害者」はかなり抽象的なものになるだろう。すくなくとも、謝罪や懺悔の対象とするには不自然な存在であるように思える。この場合の「被害者」とは理論上の問題分析のために使用するべき定義に過ぎず、謝罪などの実際的な行為の対象になるような厚みを持った存在ではないのだ。


 話が少しずれてしまうが、ここで私が思い出すのが、ある男友達が言っていたことだ。彼は最近になってTwitterを始めたが、彼のフォローの対象は狭く、アングラ寄りのサブカル系でごく一部の界隈に熱狂的な人気のある女性ミュージシャンとそのファンの若者たちばかりフォローしているようだ。そして、アングラ寄りのサブカル系が好きな若者たちばかりをフォローしていた場合にはありがちなことかもしれないが、その友人のタイムラインには「死にたい」「しんどい」「何も希望がない」というネガティブな言葉ばかりが流れてきて、反出生主義を主張する言説ばかりが流れてきて、そして女性たちが経験してきた性被害体験の告白や「自分が女性であることで日本社会でいかに性差別を受けて苦しんできたか」という訴えばかりが流れてくるそうである。私の友人は反出生主義者ではないが、Twitterであまりに何度も反出生主義の言説を読まされているうちに影響を受けてきてしまっているそうだ。そして、Twitterであまりに何度も女性による性被害や性差別の訴えを読んでいるうちに申し訳なくなり、女性全体に対する罪悪感というものを抱くようになってきて、そのためにいろんなメディアやフィクションが楽しめなくなってきたそうである。

 私がTwitterをやっているときにも、タイムラインには反出生主義の言説が流れてくることもあれば女性による性被害や性差別の訴えが流れてくることもある。だが、気付かされるのは、どちらの主張も流れてくる元は特定の「層」や「クラスタ」に偏っていることだ。反出生主義の言説は明らかにネガティブで諸々の社会性を欠いているタイプの人々たちから流れてくる。そして、性被害や性差別を訴えるツイートのなかでもある種のものは、いつも同じ人たちから流れてくる。「ある種の」とは、特定の層の共感を呼んでバズりやすいような文面にしたり漫画仕立てにしたりなどの工夫を施したうえで、性被害や性差別を訴えるツイートのことだ。…このタイプのツイートを投稿したりシェアしたりする女性たちが性被害や性差別を経験してきた、という事実を否定するつもりはない。また、理論的には(日本に住む)全ての女性が多かれ少なかれ性被害を受けてきた、ということも否定しないとしよう。しかし、特定の層の女性が性被害や性差別を訴えているツイートを読んで「申し訳なさ」や「気の毒さ」などを感じたとして、それが「女性」という存在全体に対する罪悪感を抱くことにつながるのは、飛躍があるように思える。


 男性であることの加害性を自覚した男性が女性に謝罪したり懺悔したりする、という行為に私が疑問を抱くさらなる点として、その謝罪や懺悔をすることで何かの問題が解決したり改善したりするわけではないという「意味のなさ」がある。

 たとえば自分が所属している企業なりサークルなりのコミュニティで起こった性加害や性差別であれば、本人は直接の加害者ではないとしても、コミュニティ内の性差別を放置していたりホモソーシャルを間接的に助長していたりなどの責任が存在する場合があるだろう。そのときには、謝罪という行為には自分の責任や過失を明確化して認めるという側面があるから、意味がある。…しかし、「男性」というカテゴリに属しているという理由で「女性」に謝罪をするとしても、その謝罪をした男性が女性に対して具体的にどういう責任や過失があるかは明確化されない。それに、そもそも誰に対してどうやって責任を取ればいいかも不透明だ。

 むしろ、「女性」というカテゴリ…つまり、実体のない抽象的な存在…に対して謝罪や懺悔を行ったり罪悪感を抱いたりすることには、それで満足してしまって、より具体的で実際的な行為を行うことを怠らせてしまう側面があるように思える。フェミニズムやジェンダー論に触れて女性の性被害や性差別に関する実情を知り、それに対する憤りや嘆きの念を感じたとしても、最初にすべきことは謝罪や懺悔ではないだろう。そうではなくて、性被害や性差別につながるような言動をしないように自分の生き方や異性との接し方を見直して問題があったら改善して、それができたら自分の属しているコミュニティや周りの人についても見直して問題があったら改善するようにはたらきかけたらいいのだ。謝罪や懺悔は、むしろ自己満足な行為である。

 ついでに書いておくと、いかにもバズりそうな「懺悔」記事や「懺悔」ツイートなどが制作されて、それが制作された目論見通りにバズる、という予定調和なパフォーマンス感も気にいらない。


 …ここまでの文章を読んでくれればわかると思うが、私は「男性としての自分の加害者性に伴う責任」の自覚は一切ない。より正確に書くならば「男性という総体的で抽象的なカテゴリに属していることにより生じる、女性という総体的で抽象的なカテゴリに対する、加害者性やそれに伴う責任」を認めていないということだ。

 フェミニズムやジェンダー論に触れて罪悪感を抱くようになるタイプの男性とそうでないタイプの男性との違いには、そもそも最初に触れたフェミニズムがどういうタイプのものであったか、ということも関係しているだろう。文学やエッセイのような「私的」なタイプのフェミニズムは実存に関わる部分も多く、そのために罪悪感や謝罪という実存的な方向に行くのかもしれない。一方で、評論や社会科学といった「公的」なタイプのフェミニズムはあまり実存的な内容ではないので、それに触れた人の反応は良くも悪くもニュートラルなものになるのかもしれない。昨日の記事の冒頭で書いたように、私が最初に触れたのは後者のタイプのフェミニズムだ。また、中学生という若い頃から触れていたのも関係しているだろう。そもそも女性と関わることがほとんどなければ権力や責任などというものも程遠い立場にいたので、「女性に対して罪悪感を抱く」とか「自分の特権や加害者性を自覚する」ということにはあまりにもリアリティがなかったのだ。

 もちろん、それからの人生を生きてきて関係してきた個々の女性たちに対しては色々と思うところもあるし、相手によっては責任を感じたりいまでも罪悪感を抱いていることもある。その多くは私が男性で相手が女性であるということから生じたものであったりするし、恋愛や交際に関係のあるものであったりする。また、それほど親しい関係になかった女性に対しても、振り返ってみると「あれは性差別だったな(性差別の要素があったな)」と認識できてしまうような言動をしてしまった経験はあるし、そのことを思い出すとやはり罪悪感や申し訳なさが生じる。もともと自分の言動をコントロールすることが得意ではないので相手が女性でなくても失礼なことを言ってしまったり傷付けてしまったりすることはあるのだが、それは言い訳にならないので、自分が意識できる範囲では可能な限り予防したいとは思っている。…だが、そういう認識を抱くことと、「男性」という属性によって生じる連帯責任の存在を認めるかどうかは、全く別の話なのだ。

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