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風のエッセイ(4)

かつて、アメリカに住んでいた時に気が付いたことは、ペーパーバックという単行本を読むアメリカ人が多いということだった。アメリカの本は紙の質も悪く、まさに薄っぺらい紙の表紙があるだけだが、安価であり空港などのキオスクで手軽に買える。その本を、移動中の飛行機やカフェで読むわけだ。そして、アメリカでは、その文化がキンドルなどの電子図書に移行しているということだ。

日本では、文庫本という小さなペーパーバックがあり、昔の通勤電車の中では、それを読む人は多かった。今でもそれは、少しは見かける。しかし、確実に、紙の本を読む機会は減少した。しかし、日本では電子図書を読む人は限られている。

気仙沼という地方の都市に住んでいると、まず、電子図書を読む人など見たことがない。スマホの普及率は9割ぐらいだろうから、そこで「本を読む」人がいるのかというと、スマホで読むのは、ヤフーなどのニュースや、個人的なラインなどの「短文」だろう。

つまり、現代において、長文を読む文化は、おそろしくも崩壊しつつあるのではなかろうか?

学生時代を除いて、また、仕事関連の文書以外に、長文を読む機会が少ないということは、文化の崩壊につながるのではと、私は危惧する。

人の言語は、多く聞くことにより、多く話すようになる。そして、多く読むことによって、語彙やイディオムが増えて、多く書けるようになる。

人間の赤ん坊は、母親からの話しかけを聞いて、二年間もすると話し始める。そして、学校で本を読むことで、作文ができるようになる。

話すことが苦手な人、書くことが苦手な人は、そもそものインプットが少ないという原因がある。人間は、自分が収集した情報を、再構築して発信するという、脳の働きに依存しているのだ。

もちろん、文学好きな人は、いつの時代にも、本に囲まれて生きているだろう。しかし、昭和の時代のように、駅前にかならず書店があり、町中に古本屋があり、休みの日に図書館に通い、本を楽しむという時代は終わってしまったのだ。

その人の知性は、本棚を見ればわかると言われていた。現代は、その本棚は空っぽで、アクセサリーが飾られていいる・・・。

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