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論語と算盤②立志と学問: 7.君子の争いたれ

私も絶対に争いをせぬ人間であるかのように解せらるる人も、世間に少なからぬように見受けるが、私はもちろん、好んで他人と争うことこそせざれ、全く争いをせぬというのではない。 苟も(いやしくも、仮にも)正しい道を飽くまで進んで行こうとすれば、絶対に争いを避けることはできぬものである。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうとすれば、善が悪に勝たれるようなことになり、正義が行なわれぬようになってしまう。私は不肖ながら、正しい道に立ってなお悪と争わず、これに道を譲るほどに、いわゆる円満な腑甲斐(ふがい)のない人間でないつもりである。人間にはいかに円くとも、どこかに角が無ければならぬもので、古歌にもあるごとく、あまり円いとかえって転びやすいことになる。
私は世間で覧らるるほどに、決していわゆる円満の人間ではない。一見いわゆる円満のようでも、実際はどこかに、いわゆる円満でない所があろうと思う。若い時分には、もとよりそうであったが、七十の坂を越した今日といえども、私の信ずる所を動かしこれを覆そうとする者が現るれば、私は断々乎としてその人と争うことを辞せぬのである。私が信じて自ら正しいとする所は、いかなる場合においても、決して他に譲ることをせぬ。ここが私のいわゆる円満でない所だと思う。人には老いたると若いとの別なく、誰にでも是だけの不円満な所が是非あって欲しいものである。然らざれば、人の一生も全く生き甲斐のない無意味なものになってしまう。いかに人の品性は円満に発達せねばならぬものであるからとて、あまりに円満になり過ぎると、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と、論語の先進篇(論語の第十一章)にも孔夫子(こうふうし、孔子)が説かれている通りで、人として全く品位のないものになる。
私が絶対にいわゆる円満な人間でない。相応に角もあり、円満ならざる甚だ不円満な所もある人物たることを証明するに足る……証明という語を用いるも少し異様だが……実際を一寸(ちょっと)談(はな)してみようかと思う。私はもちろん、少壮の頃より腕力に訴えて他人と争うごときことをした覚えはない。しかし若い時分には今日と違って、容貌などにもよほど強情らしい所もあったもので、したがって他人の眼からは、今日よりも容易に争いをしそうに見えたものかもしれぬ。もっとも私の争いは、若い時分から、すべて議論の上、権利の上での争いで腕力に流れた経験はいまだかつて一度もない。
明治四年私がちょうど三十三歳で大蔵省に奉職し、総務局長を勤めていた頃であったが、 大蔵省の出納制度に一大改革を施し、改正法なるものを布いて、西洋式の簿記法を採用し伝票によって金銭を出納することにした。ところが、当時の出納局長であった人が……その姓名は且(しば)らく預かり置くが……この改正法に反対の意見を持っていたのである。伝票制度の実施に当たって偶々(たまたま)過失のあることを私が発見したので、当事者に対してこれを責めてやると、元来私が発案実施した改正法に、反対の意見を持っていた出納局長という男が、倣岸(ごうがん、おごりたかぶって人を見下しているさま)な権幕で、一日私の執務していた総務局長室に押しかけて来たのである。
その出納局長が怒気を含んだ権幕で、私に詰め寄るのを見て、私は静かにその男のいわんとする所を聴きとるつもりでいると、その男は伝票制度の実施にあたって手違いをしたことなどについては、一言の謝罪もせず、しきりに私が改正法を布いて欧州式の簿記法を採用したことについてのみ、かれこれと不平を並べるのであった。「一体貴公が亜米利加(アメリカ)に心酔して、一から十までかの国の真似ばかりしたがり、改正法なんかというものを発案し、簿記法によって出納を行なわせようとするから、こんな過失ができるのである。責任は過失をした当事者よりも、改正法を発案した貴公の方にある。簿記法などを採用してくれさえせねば、われらもこんな過失をして、貴公などに責め付けられずに済んだのである」などと言語道断の暴言をほしいままにし、いささかたりとも自分らの非を省みる様な模様がないので、私もその非理屈にはやや驚いたが、なお憤らず、「出納の正確を期せんとするには、ぜひとも欧州式簿記により、伝票を使用する必要ある」ことを諄々(じゅんじゅん、よく分かるよう丁寧に言い聞かせるさま)と説いて聞かせたのである。しかしその出納局長なる男は、毫も(ごうも、少しも)私の言に耳をかさぬのみか、二言三言(ふたことみこと)言い争った末、満面はあたかも朱(しゅ)を注げるごとく紅くなって、ただちに拳固を振り上げ、私を目蒐けて打って掛かって来たのである。
その男は小背の私に比べれば、身長の高い方であったが、怒気心頭に発し、足がふらついていた上に、あまり強そうにも見えず、私はとにかく、青年時代において相当に武芸も仕込まれ、身を鍛えておったことでもあるから、あながち膂力(りょりょく、腕力)が無いという訳でもなかった。苟め(かりそめ、軽々しく)にも暴行に訴えて無礼をしたら、一ト捻り(ひとひねり)に捻ってやるのは何でもないことだとは思ったが、その男が椅子から立ち上がって、拳を握り腕をあげ、阿修羅のごとくなって、猛り狂い私に詰めかけて来るのを見るや、私もすぐ椅子を離れてヒラリ身を換わし、全く神色自若(しんしょくじじゃく、重大なことを眼の前にしても少しも顔色を変えず、落ち着いているさま)として、二三歩ばかり椅子を前に控えて後部に退き、その男が拳の持って行き所に困り、マゴマゴして隙を生じたのを見て取るや、隙さず泰然たる態度で、「ここは御役所でござるぞ、なんと心得召さる、車夫馬丁(しゃふばてい、教養のないこと)の真似をすることは許しませんぞ、御慎みなさい」と一喝したものだから、その出納局長もハッと悪いことをした、田夫野人(でんぷやじん、教養のない粗野な人)の真似をしたということに気がついたものか。折角握り挙げた拳を引っ込めて、そのままスゴスゴと私のおった総務局長室を出て行ってしまったのである。
その後、その男の進退に関し種々と申し出る者もあり、また官庁内で上官に対し暴力を揮わんとしたは怪(け)しからん、などと騒ぎ立てる者があったが、私は当人さえ非を覚(さと)り悔悟(かいご、悪かったと悔いること)したなら、依然在職させておくつもりの所が、当の私より省中の者が憤慨して、右の事情を詳細太政官に内申に及んだので、太政官でも打放っておく訳に行かず、その男を免職せらるるに至ったのは、私が今なお、甚だ気の毒に思うのである。

本書には「①処世と信条: 8.争いの可否」にもあるようにたびたび、議論という争いは大切だ、といった記述が要所要所に現れます。まぁ、面倒くさい作業なのでバカはほっといてなるべく避けて通りたい事柄ではありますが、社会や組織を正しくしていく上ではしごく真っ当な意見であるのでその通りかと思います。

そもそも旧幕臣である渋沢先生を大蔵省にと新政府の大隈重信に紹介したのは郷純造(ごうじゅんぞう)という私の故郷岐阜の豪農出身の大蔵省初代事務次官の方だったそうです(初代大蔵省事務次官を知っていますか?)。一方、幕府側の大久保利通はそのような旧幕臣の抜擢を苦々しく思って批判をしたそうなのだが、大隈重信に能力主義で人材を推薦したと言われたそうな。

今の財務省の官僚たちも、出身校や過去の成績にしがみつくだけではなく、ちゃんとまっとうな経済を勉強して、日本国民の足をひっぱらないまともな行政を行なってもらいたいものですし、大久保利通のように出世や自分のことばかりを考えるのではなく、少なくとも論戦が行える土壌づくりくらいは確保してもらいたいものだと思う今日この頃です。

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