見出し画像

論語と算盤⑩成敗と運命: 3.人事を尽くして天命を待て

天の果たして、如何なるものであろうかということについては、私の関係しておる帰一協会などの会合でも、しばしば議論の起こるところであるが、ある一部の宗教家中には、天を一種の霊的動物であるかのごとくに解釈し、これを人格ある霊体とし、あたかも人間が手足を動かして、あるいは人に幸福を授けたり、不幸を下したりするのみならず、祈禱したり御縋り申したりすれば、天はこれをそうせられて、命を二、三にせらるるかのごとくに考えておらるる方もある。しかし天はこれらの宗教家方の考えらるるごとく、人格や人体を具えたり、祈願の有無によって、幸不幸の別を人の運命の上につけるごときものではない。天の命は、人のこれをしりもせず覚りもせぬ間に、自然に行われてゆくものである。もとより天は手品師のごとき、不可思議の奇跡などを行なうものではない。
これが天命であるか、かれが天命であるとかいうのは、畢竟人間が自分でそれぞれ勝手に決めることであって、天の毫も関知する所ではないのである。ゆえに人間が天命を畏れて、人力の如何ともする能わざる、ある大なる力の存在を認め、人力を尽くしさえすれば、無理なことでも不自然なことでも、何でも必ず貫徹するものと思わず、恭、敬、信をもって天に対し、明治天皇の教育勅語のうちに、いわゆる古今に通じて謬らず、中外に施して悖らぬ、坦々として長安に通ずる大道をのみ歩み、人力に勝ち誇って無理をしたり、不自然の行為をしたりするのを慎むということは、誠に結構の至りであるが、天あるいは神、あるいは仏を人格人体あり、感情に左右せらるるものであるかのごとく解釈するのは、甚だ間違った観念であろうかと思うのである。
天命は、人間がこれを指揮してもはた意識しなくっても、四季が順当に行なわれて行くように、百時百物の間に行なわれてゆくものたるを覚り、これに対する恭、敬、信をもってせねばならぬものだ、と信じさえすれば、「人事を尽くして天命を待つ」なる語のうちに含まるる真正の意義も、初めて完全に解し得らるるようになるものかと思う。されば実際世に処して行く上において、如何に天を解してゆくべきものかという問題になれば、孔子の解せられておった程度にこれを解して、人格ある霊的動物なりともせず、天地と社会との間に行なわるる因果応報の理法を、偶然の出来事なりともせず、これを天命なりとして恭、敬、信の念をもって対するのが、最も穏当なる考え方であろうかと思うのである。

本節では、「天命」という概念に対する異なる解釈が議論されています。一部の宗教家は、天を人格を持つ霊的存在とみなし、人間の行いや祈りに応じて幸福や不幸を与えると考えています。しかし、渋沢先生はこの見解に反対し、天命は人間の意識や願望に関わらず自然に従って進行するものと説明しています。人間は天命を畏れ、自然の流れに従い、無理や不自然な行為を避けるべきだと主張しています。また、天や神、仏を人間のような存在と解釈することは誤りであり、人間は恭敬と信頼を持って天命に対処すべきだと述べています。最終的には、「人事を尽くして天命を待つ」という考え方を支持し、天命に対する最も適切な態度は恭敬と信頼であると結論づけています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?