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論語と算盤②立志と学問: 4.秀吉の長所と短所

乱世の豪傑が礼に嫺(なら)わず、とかく家道の斉(ととの)わぬ例は、単に明治維新の際における今日のいわゆる元老ばかりではない。いずれの時代においても、乱世には皆そうしたものである。私なども家道が斉(ととの)ってると口はばったく申し上げて誇り得ぬ一人であるがかの稀世の英雄豊太閣(ほうたいかく、豊臣秀吉の敬称)などが、やはり礼にならわず、家道の斉(ととの)わなかった随一人である。もとより賞(ほ)めるべきではないが、乱世に生い立ったものには、どうもこんなことも致し方のない次第で、あまり酷には責むべきでもなかろうと思う。しかし豊太閤(ほうたいかく)にもし最も大きな短所があったとすれば、それは家道の斉(ととの)わなかったことと、機略があっても、経略が無かったこととである。もしそれ豊太閤(ほうたいかく)の長所はといえば、申すまでもなく、その勉強、その勇気、その機智、その気概である。
かく列挙した秀吉の長所の中でも、長所中の長所とも目すべきものは、その勉強である。私は秀吉のこの勉強に衷心(ちゅうしん、真心の奥底)より敬服し、青年子弟諸君にも、ぜひ秀吉のこの勉強を学んで貰いたく思うのである。事の成るは成るの日に成るに非ずして、その由来する所や必ず遠く、秀吉が稀世の英雄に仕上がったのは、一にその勉強にある。
秀吉が木下藤吉と称して信長に仕え、草履取をしておった頃、冬になれば藤吉の持ってた草履は、常にこれを懐中に入れて暖めておいたので、いつでも温かったというが、こんな細かなことにまで亘る注意はよほどの勉強でないと、到底行き届かぬものである。また信長が朝早く外出でもしようとする時に、まだ供揃いの衆が揃う時刻でなくっても、藤吉ばかりはいつでも信長の声に応じて御供をするのが例であったと伝えられておるが、これなぞも秀吉の非凡なる勉強家たりしを語るものである。
天正十年、織田信長が明智光秀に弑(しい、殺)せられた時に、秀吉は備中にあって毛利輝元を攻めておったのであるが、変を聞くやただちに毛利氏と和し、弓銃各五百、旗三十と一隊の騎士とを輝元の手許より借り受け、兵を率いて中国より引き返し、京都を去る僅かに数里の山崎で光秀の軍と戦い、遂にこれを破って光秀を誅し、その首を本能寺に戻すまでに、秀吉の費やした日数は、信長が本能寺に熱せられてより僅かに十三日、ただ今の言葉で申せば二週間以内のことである。鉄道も無く車も無い。交通の不便この上なきその頃の世の中に、京都に事変のあったのが、一旦中国に伝えられた上で和議を纏め、兵器から兵卒まで借り入れて京都へ引き返すまでに、事変後、僅かに二週間を出でなかったというのは、全く秀吉が尋常ならぬ勉強家であった証拠である。勉強がなければ如何に機智があっても、如何に主君の仇を報ずる熱心があっても、かくまで万事を手早く運んで行けるものではない。備中(びっちゅう、岡山西部)から摂津(せっつ、大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の尼ヶ崎まで、昼夜兼行で進んで来たのであるというが、定めしそうであったろうと思う。
翌天正十一年がすぐ賤ヶ岳(しずがたけ)の戦争になって、柴田勝家を滅ぼし、遂に天下を一統して、天正の十三年に秀吉も目出度く関白の位を拝するようになったのであるが、秀吉がかく天下を一統するまでに要した時間は、本能寺の変あって以来、僅かに満三年である。秀吉には、もとより天稟(てんぴん、才能)の勝れた他に異なるところもあったに相違ないが、秀吉の勉強が全くこれをしからしめたものである。
これより先、秀吉が信長に仕えてから間もなく、清洲(きよす、愛知県の北西部)の城壁を僅かに二日間に修築して信長を驚かしたということも伝えられておるが、これとても一概に稗史(はいし、民間の歴史書)小説の無稽譚(むけいだん、でたらめな話)として観るべきでない。秀吉ほどの勉強をもってすれば、これぐらいのことは必ずできたと思う。

本節では、豊臣秀吉が天下をとったのもその勉強熱心さのおかげと述べているが、ここでいう「勉強」とは単に本を読んだり技術を習得するために練習を重ねたりするといった話ではなく、おそらく目的に向かい執念を持ってこつこつと事を続け、チャンスのタイミングを逃さないよう精進することを表しているように思えます。

チャンスの神様は逃さないよう日々精進したいと思います。

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