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論語と算盤③常識と習慣: 3.悪(にく)んでその美を知れ

余は、ややもすれば世人より誤解されて、渋沢は清濁併せ呑む(せいだくあわせのむ、心が広く善でも悪でも分け隔てなく受け入れること)の主義であるとか、正邪善悪の差別を構わぬ男であるとか評される。先頃もある者が来て、真向から余に詰問し、「足下(そっか、二人称の人称代名詞、あなた)は日頃論語をもって処世上の根本義とせられ、また論語主義をもって自ら行なわれつつあるにもかかわらず、足下(そっか)が世話される人の中には、全く足下(そっか)の主義と反し、むしろ非論語主義の者もあり、社会より指弾さるる人物をも、足下(そっか)は平然としてこれを近づけ、虚然として世評に関せざるがごとき態度をとらるるが、かくのごときは足下(そっか)が高潔なる人格を傷つくるものではあるまいか。その真意が聞きたい」とのことであった。
なるほどそう言われてみると、この評もあるいはしからんと、自ら思い当たることがないでもない。しかしながら余は、別に自己主義とする所があって、およそ世事に処するに方(あた)っては、一身を立つると同時に社会のことに勤め、能(あた)う限り善事を殖(ふ)やし、世の進歩を図りたいとの意念を抱持している。したがって、単に自己の富とか、地位とか、子孫の繁栄とかいうものは第二に置き、専ら国家社会のために尽くさんことを主意とするものである。されば、人のために謀って善をなすことに心掛け、すなわち人の能を助けて、それを適所に用いたいとの念慮が多いのである。この心掛けが、そもそも世人から誤解を招くに至った所以ではあるまいか。
余が実業界の人となって以来、接触する人も年々その数を増し、しかしてそれらの人々が余の行なう所に見倣(みなら)いて、各々長ずる所によりて事業を精励すれば、たとえその人自身は、自己の利益のみを図るの目的に出づるとしても、従事する業務が正しくありさえすれば、その結果は国家社会のためになるから、余は常にこれに同情し、その目的を達しさせてやりたいと思っている。これは単に直接利益を計る商工業者に対しての場合のみならず、文筆に携わる人に対しても、やはり同一主義の下に接して来た。例えば、新聞雑誌等に従事している者が来て、余に説を請う時にも、余が説を掲載して幾分なりともその価値を高め得るものとすれば、自説はたとえ、価(あたい)あるものと思っても、請う人の真実心より出たものならば、これを斥(しりぞ)けない。それらの人々の希望を容れてやるのは、独り希望する人の為のみならず、社会の利益の一部分ともなろうかと考えるので、非常に多忙の時間を割いてその要求に応ずる次第である。自己の懐抱する主義がこうであるから、面会を求めて来る人には、必ず会って談話する。知人としからざるとの別なく、自分に差し支えなければ、必ず面会して先方の注意と希望を聞くことにしている。それであるから、来訪者の希望が道徳に協(かな)っていることと思う場合ならば、相手の何人たるを問わず、その人の希望を叶えてやる。
しかるに、余がこの門戸開放主義につけ込んで、非理を要求して来る人があって困る。例えば、見ず知らずの人から生活上の経費を貸してくれと申し込まれたり、あるいは親が身代(しんだい)不如意(ふにょい、家計が苦しいこと)のため、自分は中途から学資を絶たれて困るから、今後何年間、学資の補助を仰ぎたいとか、またはかくかくの新発明をしたから、この事業を成立させるまで助勢を乞うとか、甚だしきに至っては、これこれの商売を始めたいから、資金を入れてくれとか、ほとんど、この種の手紙が月々何十通となく舞い込んで来る。余はその表面に自己の宛名がある以上、必ずそれを読むの義務があると思うので、そういう手紙のくる毎に、屹度(きっと)目を通すことにしている。また自ら予が家に来たり、この種の希望を述べる者もあるので、余はそれらの人々にも面会するが、しかし、これらの希望や要求というものには道理のないのが多いから、手紙の方はことごとく自身では断りきれぬけれども、特に出向いて来た人に対しては、その非理なる所以を説いて、断るようにしている。余がこの行為を他人から見たならば、何もそういう手紙を一々見たり、そういう人にことごとく会う必要はないというであろう。けれども、もしそれらに対して面会を謝絶したり、手紙を見なかったりすることは、余が平素の主義に反する行為となる。それゆえ、自ずから雑務が多くなって寸暇もなくなるゆえ、困るとは知りながらも、主義のために余計な手数をもかける訳である。
しかして、それらの人の言って来た事柄でも、または知己から頼まれたことでも、道理に協(かな)っておることであれば、余はその人のため、二つには国家社会のために、自力の及ぶ程度において力を貸してやる。つまり道理ある所には、自ら進んで世話をしてやる気にもなるのであるが、そういうことも後日になってみると、あの人は善くなかった、あの事柄は見違えたということがないではない。しかし、悪人必ずしも悪に終わるものでなく、善人必ずしも善を遂げるものとも限らぬから、悪人を悪人として憎まず、できるものならその人を善に導いてやりたいと考え、最初より悪人たることを知りつつ、世話してやることもある。

渋沢先生は「人の能を助けてそれを適所に用いたい、という思いで実業界で働いてきたので、私利私欲のため事業を行おうとしている人もその事業のやり方が正しくさえあれば国家社会のためになると考え応援してきた」とあります。先生はこのことを門戸開放主義と自ら呼び、さまざまな理由で金の工面をしてほしいと申し出てくる輩に対して逐次その申し出が道理にあわぬことを説いて断ったとあります。

論語は人間の正しい考え方を説いているものではありますが、「悪人必ずしも悪に終わるものでなく、善人必ずしも善を遂げるものとも限らぬ」ということで、支援を申し出てくる人を人格のみで判断するわけでなく、彼らがやりたいことの道理を踏まえて判断されたということ、非常にプラクティカルで頭の柔らかい現実主義な方なのだなと実感します。

人間たるもの本来純粋で無邪気で好奇心旺盛な善きものであると僕も思うので、僕の専門はやっぱりIT技術なので、子供たちが大人になっても無邪気でいられるような希望を持てる武器の使い方を教えられたらなと思う今日この頃であります。

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