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論語と算盤⑩成敗と運命: 2.失敗らしき成功

支那で聖賢といえば、堯舜がまず始(初)まりで、それから禹湯、文武、周公、孔子となるのであるが、堯舜とか禹湯とか文武、周公とかいう人達は、同じ聖賢の中でも、いずれも皆今の言葉でいう成功者で、生前において、はやくすでに見るに足るべき治績を挙げ、世人の尊崇を受けて死んだ人々である。これに反し、孔子は今の言葉のいわゆる成功者ではない。生前は無辜の罪に遭って、陳蔡の野に苦しめられたり、随分、艱難ばかりを嘗められたもので、これをいう見るべき功績とても、社会上にあった訳ではない。しかし千載の後、今日になって見ると、生前に治績を挙げた成功者の堯舜、禹湯、周公よりも、一見その全生涯が失敗不遇のごとくに思われた孔子を、崇拝する者の方がかえって多く、同じく聖賢の内でも孔子が最も多く尊崇せられている。
支那という国の民族気質には一種妙な所があって、英雄豪傑の墳墓などは粗末にしておいて、毫も怪しまず平然たり得る傾向がある。しかし、友人にして支那の事情に通ぜらるる、白岩君に面会して親しく聞いた所や、また白岩君が「心の花」に寄せられた紀行などを読んでも明らかに知られるように、曲阜にある孔子の廟ばかりは、流石の支那人もこれを頗る鄭重に保存して、善美荘厳を極め、夫子の後裔も今なお現存して、一般より非常なる尊敬を受けているとのことである。しからば孔子が生前において、堯舜、禹湯、文武、周公のごとき政治上に見るべき功績を挙げて、高き位におるまでに至らず、その富も天下を有つというまでになれずに、今の言葉でいう成功をしなかったことは、決して失敗でないのである。これがかえって真の成功というべきものである。
眼前に現れた事柄のみを根拠として、成功とか失敗とかを論ずれば、湊川に矢尽き刀折れて戦死した楠正成は失敗者で、征夷大将軍の位に登って勢威四海を圧するに至った足利尊氏は、確かに成功者である。しかし今日において尊氏を崇拝する者はないが、正成を尊崇する者は天下に絶えぬのである。しからば生前の成功者たる尊氏は、かえって永遠の失敗者で、生前の失敗者たりし正成はかえって永遠の成功者である。菅原道真と藤原時平とについて見ても、時平は当時の成功者で、大宰府に罪なくして配所の月を眺めねばならなかった道真公は、当時の失敗者であったに相違ないが、今日では一人として時平を尊む者なく、道真公は天満大自在として、全国津々浦々の端においても祀られている。道真公の失敗は決して失敗でない。これかえって真の成功者である。
これらの事実より推して考えると、世のいわゆる成功は必ずしも成功でなく、世のいわゆる失敗は必ずしも失敗でないということが頗る明瞭になるが、会社事業その他一般営利事業のごとき、物質上の効果を挙げるのを目的とするものにあっては、もし失敗すると、出資者その他の多くの人にも迷惑を及ぼし、多大の損害を掛けることがあるから、何が何でも成功するように努めねばならぬものであるが、精神上の事業においては、成功を眼前に収めようとするごとき浅慮をもってすれば、世の糟を喫するがごとき弊に陥って、毫も世道人心の向上に貢献するを得ず、永遠の失敗に終わるものである。例えば、新聞雑誌のごときものを発行して、一世を覚醒せんとしても、この目的を達するがために時流に逆らって反抗すれば、時にあるいは奇禍を買って、世のいわゆる失敗に陥り、苦い経験を嘗めねばならぬごとき場合が、ないとも限らぬのである。しかし、それは決して失敗ではない。たとえ、一時は失敗のごとくに見えても、長い時間のうちには努力の功空しからず。社会はこれによって益せられ、結局その人は必ずしも千載の後を待たずとも、十年二十年あるいは数十年を経過すれば、必ずその功を認められることになる。
文筆言論、その他すべて精神的方面の事業に従事する者が、今のいわゆる成功を生前に収めようとして悶けば、かえって時流に阿り、効果を急ぐがために、社会に益を与えぬようなことになる。さればとて如何に精神的事業でも、いたずらに大言壮語して、人生の根本に触るることのできぬ、大きな目論見ばかり立てて、毫も努力する所がないようでは、百載の後、たとえ、黄河の澄む期節があっても、到底失敗に終わり、最後の成功を収め得らるべきものでない。渾身の努力をさえ尽くしておれば、精神的事業においての失敗は、決して失敗ではない。あたかも孔子の遺業が、今日世界幾百千万の人に、安心立命の基礎を与えつつあるごとく、後昆を裨益し、人心の向上発達に貢献し得ることになり得るものである。

本節では、成功と失敗の本質について、中国の歴史的人物を例に取りながら論じています。古代中国の聖賢として称される堯舜、禹湯、文武、周公などは生前に目覚ましい成果を挙げ、尊敬されたが、孔子は生前には成功しなかったにも関わらず、後世において最も尊敬されています。この例から、先生は、物質的な成功だけが成功ではなく、精神的な事業の失敗も真の成功につながることを指摘しています。楠正成や菅原道真のように生前は失敗したとされる人物も、時間が経つにつれて尊敬されるようになった事例を挙げ、物質的な成功を急ぐことの弊害を説いています。最終的に、精神的な事業においては、努力が結果的に社会に貢献し、真の成功につながることを強調しています。

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