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論語と算盤⑤理想と迷信: 2.この熱誠を要す

如何なる仕事に対しても、近頃の流行語に趣味を持たねばいかぬといいますが、この趣味という語の定義がどの辺にあるか、学者でないから完全なる解釈を下すことはできないが、人が職掌(しょくしょう)を尽くすというにも、この趣味を持つということを深く希望する。趣味という字は理想とも聞こえるし、欲望とも聞こえるし、あるいは好み楽しむというような意味にも聞こえる。ゆえに、この趣味という字を約(つづ)めて解釈したならば、単にその職分を表面通りに勤めて往くというのは、俗にいうお決まり通りで、ただその命令に従って、これを処して行くのである。しかし趣味を持って事物を処するというのは、わが心から持ち出して、この仕事はかくしてみたい、こうやってみたい、こうなったから、これをこうやったならば、こうなるであろうというように、種々(いろいろ)の理想欲望をそこに加えてやって行く。それが初めて趣味を持ったということ、すなわち趣味というのはその辺にあると、私は理解する。趣味の定義はどうであるか知らぬが、ぜひ人はその掌(つかさど)ることについて、すべてこの趣味を持たれたいと思う。さらに一歩進んで、人として生まれたならば、人たる趣味を持って尽くしたいと思う。果たしてこの世に一人前の趣味を持って、その趣味が真正に向上して往ったら、それこそ相応の功徳が世の中に現れ得るであろう。それまでになくとも、趣味ある行動であったならば、必ずその仕事について精神あることであろうと思う。もしそのお決まり通りの仕事に従うのであったら、生命の存在したものでなくて、ただ形の存したものとなる。ある書物の養生法に、もし老衰して生命が存在しておっても、ただ食って、寝て、その日を送るだけの人であったならば、それは生命の存在ではなくして、肉塊の存在である。ゆえに人は老衰して、身体は充分に利かぬでも、心をもって世に立つ者であったら、すなわちそれは、生命の存在であるという言葉があった。人間は生命の存在たり得たい。肉塊の存在たり得たくないと思う。これは私ども頽齡(たいれい)のものは、始終それを心掛けねばならぬ。まだあの人は生きておるかしらんといわれるのは、蓋(けだ)し肉塊の存在である。もしそういう人が多数あったならば、この日本は活き活きはせぬと思う。今日世間に名高い人で、まだ生きておるかと言われる人がたくさんある。これは、すなわち肉塊の存在である。ゆえに事業を処するにもその通り、ただそのつとめるだけでなく、そのことに対して趣味を持たなければいかぬ。もし趣味がないなら精神がなくなってしまう。ちょうど木偶人(もくぞう)と同様になる。かくのごとき訳であるから、何事でも自己の掌ることに深い趣味をもって尽くしさえすれば、自分の思う通りにすべてが行かぬまでも、心から生ずる理想、もしくは慾望のある一部に適合し得らるるものと思う。孔子の言に、「これを知る者は、これを好む者に如(し)かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」とある。蓋しこれは趣味の極致と考える。自分の職掌に対しては、必ずこの熱誠がなくてはならぬのである。

現代ならば、仕事のほかに趣味を持つとよい、というのでしょうが、本節では「趣味を持って事物を処するというのは、わが心から持ち出して、この仕事はかくしてみたい、こうやってみたい、こうなったから、これをこうやったならば、こうなるであろうというように、種々(いろいろ)の理想欲望をそこに加えてやって行く」とある。

要は、全くロボットのようにマニュアルに従ってのみ仕事をするのではなんの発展もありえないし、仕事を自分ごととして行わないならば仕事の達成に責任も工夫も成長もなく、よい仕事は行えないだろう、といった意味合いかと思われます。

最近知り合いになった先輩に、昔料理の修行をして板前をやっていたのだけど、料理があまりにも好きなので嫌な客に食事を出すのが嫌なので板前をやめたという方がいる。

この方の言い分もよくわかるし、趣味を仕事にすると趣味が嫌いになってしまうのでよくない、とよく言います。ただ、この先輩は大好きな趣味を仕事にできなかったけれど、楽しく今の仕事をされている。個人事業で客商売なので、コロナで厳しい情勢の中、工夫しながら事業継続をされていて、とても柔軟な経営をなされている。

ここでいう仕事にも趣味が大切というのは、いままでのやり方に固執することなく、自分ごととして常に自由な発想で工夫するようにしようというような意味で、まったくそのとおりだと思います。

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