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論語と算盤②立志と学問: 10.一生涯に歩むべき道

「余は十七歳の時、武士になりたいとの志を立てた」と言うのは、その頃の実業家は一途に百姓町人と卑下されて、世の中からはほとんど人間以下の取り扱いを受け、いわゆる歯牙にも掛けられぬという有様であった。しかして、家柄というものが無闇に重んぜられ、武門に生まれさえすれば智能のない人間でも、社会の上位を占めて恣(ほしいまま)に権勢を張ることができたのであるが、余はそもそも、これが甚だ癪(しゃく)に障り、同じく人間と生まれ出た甲斐には、何が何でも武士にならなくては駄目であると考えた。その頃、余は少しく漢学を修めていたのであったが、『日本外史』など読むにつけ、政権が朝廷から武門に移った経路を審(つまび)らかにするようになってからは、そこに慷慨(こうがい、世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと)の気というような分子も生じて、百姓町人として終わるのが如何にも情なく感ぜられ、いよいよ武士になろうという念を一層強めた。しかしてその目的も、武士になってみたいというくらいの単純のものではなかった。武士となると同時に、当時の政体をどうにか動かすことはできないものであろうか。今日の言葉を借りていえば、政治家として国政に参与してみたいという大望を抱いたのであったが、そもそもこれが郷里を離れて四方を流浪するという間違いを仕出来した原因であった。かくて後年大蔵省に出仕するまでの十数年というものは、余が今日の位置から見れば、ほとんど無意味に空費したようなものであったから、今このことを追憶するだに、なお痛恨に堪えぬ次第である。
自白すれば、余の志は青年期において、しばしば動いた。最後に実業界に身を立てようと志したのが漸(ようや)く明治四十五年の頃のことで、今日より追想すれば、この時が余にとって真の立志であったと思う。元来自己の性質才能から考えてみても、政界に身を投じようなどとは、むしろ短所に向かって突進するようなものだと、この時、漸く気がついたのであったが、それと同時に感じたことは、欧米諸邦が当時のごとき隆昌(りゅうしょう、盛んなこと)を致したのは、全く商工業の発達している所以である。日本も現状のままを維持するだけでは、いつの世か彼らと比肩し得るの時代が来よう。国家のために商工業の発達を図りたい、という考えが起こって、ここに初めて実業界の人になろうとの決心がついたのであった。しかしてこの時の立志が、後の四十余年を一貫して変ぜずに来たのであるから、余にとっての真の立志はこの時であったのだ。
顧(おも)うにそれ以前の立志は、自分の才能に不相応な、身のほどを知らぬ立志であったから、しばしば変動を余儀なくされたに相違ない。それと同時にその後の立志が、四十余年を通じて不変のものであった所から見れば、これこそ真に自分の素質にも協(かな)い、才能にも応じた立志であったことが窺い知られるのである。しかしながら、もし自分におのれを知るの明があって、十五、六歳の頃から本当の志が立ち、初めから商工業に向かって行っていたならば、後年、実業界に踏み込んだ三十歳頃までには、十四、五年の 長日月があったのであるから、その間には商工業に関する素養も充分に積むことができたに相違なかろう。仮にそうであったとすれば、あるいは実業界における現在の渋沢以上の渋沢を見出されるようになったかもしれないけれども、惜しいかな、青年時代の客気に誤られて、肝腎の修養期を全く方角違いの仕事に徒費してしまった。これにつけても将に志を立てんとする青年は、宜しく前車の覆轍(ふくてつ、失敗の前例)をもって後車の戒めとするが宜いと思う。

窮すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち兼て天下を善くす 孟子

本節には、渋沢先生が実業界に身を立てようと立志したときの思いが語られています。若いころは武士さらには政治にこころざし大蔵省に入ったが、それを反省し、やはり国の繁栄には商工業の発達が肝心であるとの見解や先生自らの才能は実業家の方にあり、明治四十五年の頃、大蔵省を辞めやっと実業界に入り、真の立志をたてられた気分であったことが語られています。

その後、500以上にも上る会社の設立や経営に関わって「近代日本資本主義の父」「実業の父」と呼ばれるに至っているわけです。

最後の孟子の言葉「古くから賢人というものは、志をえず優柔不断な間はひとり修養を行い、その後立志の境地に達すれば、自分だけでなく天下の人々もよくしたものだ」を先生の人生に重ねるように述べています。

賢人とまではいかないまでも、志をもって仕事を進めていきたいものです。

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