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ラジオと知性と未来

●知性とは『言い換える力の強さ』ではないか。そしてそれは比喩に代表される表現スキルに如実にあらわれる。
●馬鹿のふりをしようとすれば簡単だ。丸いものを見て『丸いですねぇ』と感嘆してみればいい。誰もが馬鹿だと思ってくれる。ただ、さも珍しいものでも発見したような顔つきで『丸いですねぇ』と感嘆した場合、逆にそれを見た側の知性の力によって、勝手な深読みが行われ『素直な感動』と褒められたりする。
●世の中には得な人がいて、こういった喜怒哀楽表現の巧さでなんとなく『知性を超えた何か』があるように思われている。これはこれで素晴らしいことだ。なぜなら、その評価の高さにより、その人には多くの人が語りかけ、多くのものを見せようとし、多くの場に呼ばれ、体験させられる。その結果知性が育てられることがよくあるのだ。
●ただ、そういう人は知性の基礎を成すような部分が弱いので、時事問題などを突きつけられても対応できないことが多く、何か言えても『期待を裏切るくらい当たり前』のことしか言えなかったりする。その人としては体験や会話の記憶を全力で投入したつもりなのだが、それは全て『他の人が知っている話』ばかりなのだ。
●知性に基礎がある人は、もともとの知識量や経験量からの照合で、いちいち元ネタを言わなくても、いろんな比喩的置き換えができる。比喩的置き換えができるということは、分類ができるということであり、分類ができれば、比較も置き換えも転移も列挙もできる。それを複合的に展開できれば、言葉で曼荼羅を構成することもできるのだ。言語世界をレイアウト感覚でオペレーションできたら、それは天才とほぼ同じだと言える。天才との違いがあるとすれば、天才にはもはやレイアウトやオペレーションすら存在しないらしいということなのだが。

 
●庶民、大衆がそんな言語世界を得るにはどうすればいいか。天才に届かなくてもいいから、せめてレイアウトする感覚くらいは体験してみたい…その欲求に応えてきたのが、芸能であり、芸術であり、あらゆる創作の世界なのだ。それら一つ一つはある局面のレイアウトしか見せていないが、大勢で、繰り返し、それら作品に触れることで、集団で、より完成度の高いものが得られる。
●大阪においては、浄瑠璃芝居(歌舞伎、文楽)と落語・講談・口説(祭文など)が、その役割を果たした。江戸においては歌舞伎と落語・講談が圧倒的にその役割を果たしてきた。日本の大都市は、琵琶法師以前からずっと強靭なソフトパワーで街の共有知力を高め、茶会や酒宴、さまざまな稽古ごと、祭りの場を個々を磨くワークショップの場として大切にしてきた。
●こういったことは、江戸・上方だけの特権ではない。琉球は国を挙げての芸能体験共有により多大な知的恩恵を得てきたし、全国各地で、さまざまな祭りや地域芸能、あるいは放浪者を迎え入れ続けてきたことにより、それを獲得している。
●それに比べ、この二十年、放送はどうだ。日に日に比喩性を失い、まさに『蓋を開けただけの缶詰がならべられたような』編成が連ねられている。生涯、これほどラジオもテレビもつまらないと思ったことはない。

 
●ありがたいことに、日本にはラジオだけで百社近く放送局があるので、僅かでも優れた放送局や番組を選べばなんとか凌げるのだが、昔のように『適当にダイヤルをあわせてつけっぱなしにして』いい番組に出会うことはほとんどなくなった。
●今やラジオは数少ない横綱と、非常の時にしか蓋を開けない缶詰と、一生懸命だけが取り柄の少年相撲だけの世界になってしまった。少年相撲はつまらなくはないが、それは地元の行事だった場合だけで、つまり、コミュニティラジオなら許せる、という話だ。
●ラジオに話芸がなくなった。つまり、ラジオから比喩が消え、素人くさいストレートな指摘と、素人くさい当たり障りのない紋切りと、素人くさい『きいたことのあるような決めゼリフばかり』のテンポの悪い『全然自由でないフリートーク』で埋め尽くされているのだ。いや、その下手さ加減を、猛烈な取材や人脈活用で補うとか、放送環境で思い切ってみるとか、何か熱心にカバーしようという誠意があれば応援するのだが、そんなところばかり保守的になっていたりする。
●テレビには最早これを復元できるチカラがあるとは思えないが、仕組みの簡単なラジオならまだ復活のしようはある。とにかく体制をコンパクトにして、人自身を磨かせる方向で、放送クオリティの向上に力をいれてもらうしかないように思う。ラジオだけが頼みの綱だ。せめて『何もわかってはいないが知性を超えた何かがある馬鹿』のフリくらいしてほしい。リスナーが必死になって詰め込んでくれるだろう。


【参考図書】


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