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#大阪テレビ放送 開局前のサービス放送 バラエティ番組の始まりは『チャネルの6番』から。

◎大阪キューバンボーイズショー
・11月18日(日)
昼の部
11.48 おしらせ
11.50 大阪キューバンボーイズショー「タイガーラグ」「エル・チョクロ」ほか
0.10 短編映画
1.00 おしらせ

 18日は、昼夜ともに華やかな番組が放送された。日曜日、街頭テレビに集まった人々を、さぞ喜ばせたことだろう。
 昼の部は、まず11.50から「大阪キューバンボーイズショー」が20分間放送された。曲目は「タイガーラグ」「エル・チョクロ」ほか。
 大阪キューバンボーイズは、1954年、近藤正春をリーダーに結成された人気ジャズオーケストラで、宗右衛門町の名門キャバレー「メトロポリタン」を拠点に活動。ここから坂本スミ子やアイ・ジョージといったスター歌手が生まれ、のちに名門ジャズオーケストラとして語り継がれる存在となる。
 現在ほど自由にレコード音源が選べる時代でもなかった当時、放送局にとって「楽団」は必要不可欠なものであった。財力のある大手の放送局は、自社専属の楽団を持っていた。大阪の場合、新日本放送は中沢寿士率いるNJBジャズオーケストラ(通称「NJB楽団」)が有名であったし、朝日放送は、ジャズ楽団のみならず、近衛秀麿率いるABC交響楽団(旧・近衞管弦楽団)や、大澤壽人率いるABC室内管弦楽団なども有していた。
 大阪キューバンボーイズが生まれた宗右衛門町の「メトロ」は、萬国観光株式会社が1936年12月に萬国観光株式会社が開いた国際キャバレー「メトロポリタン」で、同社が大阪市中央区宗右衛門町で運営する「ホテルメトロThe21」にその名を留めている(沿革はこちら http://www.metro21.co.jp/gaiyo.htm )。
 続いて12.10からは短編映画が50分間放送された。大阪朝日、大阪毎日新聞、産業経済新聞に掲載された番組表には、映画の題名は掲載されていない。


◎ミュージカルショー「Channel NO.6」

・11月18日(日)
夜の部
6.58 おしらせ
7.00 ミュージカルショー「チャンネルNo.6」 香住香ほか
7.30 中座中継「延命院日当」仁座右衛門ほか
9.00 おしらせ

 夜の部はテストパターン〜おしらせで夜7時開始。
 まず7.00からは、スタジオ制作によるミュージカルショー「チャンネルNO.6」が放送された。このタイトルは、当時、マリリンモンローが愛用したとして知られる『Chanel No.5』にひっかけたもの。

出演は香住豊、葛城日佐子、牧香織ほか。
 香住豊はOSK(大阪松竹歌劇団)の大幹部。葛城日佐子、牧香織もそれに続く幹部級ダンサー。
 OSKはこの直前、1956年3月に、あやめ池遊園地内に建設された円形大劇場での定期公演を開始した。
 近鉄は当時からOSKを応援しており、近鉄あやめ池遊園地での公演は1950年から行われていたが、まさにこの円形大劇場はOSKを意識して新築したものである。それは、劇場と同時にOSKのための養成所が新設されたことをみてもわかる。さらに1957年に株式会社大阪松竹歌劇団として経営独立する際には近鉄は資本参加。1970年には近鉄の子会社(グループ企業)としても名を連ねることとなる。これは、もちろん阪急=小林一三が沿線開発のために宝塚歌劇団を設立・育成したことに倣ったものであることは言うまでもない。
 番組については、OSKの人気出演者をそろえたスタジオレビューだったと想像はできるが、今のところ内容を知る手がかりはない。今後、関係者へのインタビューから掘り起こしてゆくしかない。
 それにしても「ミュージカルショー・チャンネルNo.6」というタイトルには大いにそそられる。まさに大阪テレビにささげられた番組ではないか、と、空想がかきたてられる。
 続いて7.30からは道頓堀・中座からの劇場中継「延命院日当」が9時まで放送された。もっともこれは予定された番組表上のことであるから、実際には開始時刻が前後した可能性もある。
 出演は十三代目片岡仁左衛門、嵐吉三郎、嵐雛助、片岡我重。
 この作品は、現在の荒川区西日暮里に実在する「延命院」で享和3年(1803)に起きた凄惨な色恋沙汰を戯作化したもの。当時の延命寺住職・日潤こと初代尾上菊五郎の息子、丑之助が、大奥や諸大名、大商人の女中・妻女など59人と密通し死罪となる事件である。
 中座は大阪府大阪市中央区の道頓堀にあった歴史的劇場の一つ。中座、浪花座、角座、朝日座、弁天座をもって道頓堀五座と呼ばれており、大阪の古典芸能・大衆芸能の両面を支えた場所のひとつである。のちに藤山寛美が松竹新喜劇の上演の拠点にするなど、戦後長らく栄華を誇っていたが。老朽化と営業不振で1999年に閉館した。
 この頃、劇場中継は、スポーツ中継とならんで人気番組の一つであった。
 当時はまだVTRが導入されていなかったので、生中継しなければならないため、現場では、まず人一倍優れた慎重さと度胸と探究心が求められた。もちろん現場に「技術」が必要なのは言うまでもないが、テレビ放送自体の歴史が浅いため、熟練や豊富な現場経験など求めようがない。そこで力を発揮したのは「強い探究心を持った人」や「広範な技術知識を持った人」であった。
 この時代、日本も、世界もテレビ放送用機器の開発と生産は始められていたが、最新の技術は「現場から生まれる」ことが多かったという。実際、メーカーが放送局に新製品や新機能の売り込みに来ても「それならうちのアイディアの方が良い」と、逆に局の技術者がメーカーにプレゼンテーションするような事が少なからずあった。局が開発した技術は、まさに「必要な時に確実に動くかどうか」という基準に磨かれたものなので、信頼性が高かった。極論をいえば「満足に映るかどうか。満足に聞こえるかどうか」だけが重要だったのだ。
 中継放送の現場は、毎回が大きな技術的試練であった。何より当時の機器は今では想像できないほど壊れやすく、特に振動に対しては無力に近かった。しかも、道路舗装も不十分で、機材運搬車のスプリングも堅かったこの時代、移動中や移動先での故障は頻繁であった。そのため、どこでも、どんな状況でも直せる技術が必要だった。

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