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日本の放送百年百人 13 『生涯3度の第一声』


開局第一声。一つの放送局に一度しかない歴史的な瞬間で、大抵は、その放送局の編成や制作のトップがキューを振り、その放送局のトップアナウンサーや、傑出したも何かを持つ者が担当することが多かった。開局第一声を担当したアナウンサーの名前は、社史やさまざまな記録に未来永劫残る。それが開局第一声を担当することの凄さであり栄誉だ。
この栄誉を1人で3回も得たアナウンサーがいる。つまり、生涯で3つの放送局の第一声を担当した人が、歴史上存在するのだ。

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戦前、満州電電の放送部に入社し、当時アナウンス部にいた森繁久彌のもとでトレーニングを受け、新京、哈爾濱、海拉爾、大連と転勤した糸居五郎は、戦後、日本放送協会には定員で入れなかったが、現場経験のあるアナウンサー(しかも広告など内地では誰も体験しなかった現場を踏み)であったため、開局前のラジオ東京とラジオから誘いを受け、ラジオ京都に入社。開局第一声を担当した。

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すでに十年近い経歴であった糸居は現場指導において重宝がられ、開局前のラジオ南海(愛媛県)にトレーナーとして呼ばれ、ここでも開局第一声を担当した。糸居はここでスポーツ実況のノウハウを伝えたと言われている。

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さらに、経済界の肝煎りで東京にニッポン放送が開局した時にも経験者として招かれ、開局第一声を担当した。

糸居五郎については、ニッポン放送入社後の音楽DJとしての『伝説』が多く残されており、独特のしゃくるような調子の、少しクセのある喋りが有名だが、もともとは満州で鍛えたアナウンス作法を心得た『第一声を任されるような』正統派のアナウンサーだったのだ。

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糸居五郎は、ニッポン放送入社後、満州時代、いや、その前の小石川時代の兄の影響により詳しかったジャズの知識を買われ、音楽番組を任されるようになった。さらには、後発局であったニッポン放送が新たなリスナーを開発するために設立した『株式会社深夜放送』という、いわば社内カンパニーのような別働部門で活躍することとなる。まだ未開拓であった深夜帯に、流行音楽や、お色気番組などを編成・制作する、別働営業部隊を持った現業部門だ。

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糸居はここで、今風の言葉で言えば『かなりマニアックなジャズ番組』を担当した。あまりに先端的ゆえ、選曲からトークまで全て自分でやらねばならない。ついには自分でターンテーブルまで操作する『ワンマンスタイル』による放送が行われた。

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当時はビニール盤のレコードしかないから、一回一回演奏するたびに『頭出し』という操作をしなければならない。
これは、レコードに針を落として、手でターンテーブルを回しながら曲の頭を探す作業だが、当然、その間、喋りを休むわけにはゆかず、針でレコードを探りながら、曲紹介や解説をして時間を稼ぐことになる。すると、喋りがぶつ切りになり、なんとなく上擦ったような、少しばかり『心ここにあらず』みたいな調子になった。これが、あの、独特の『糸居節』が誕生した背景だ、と、ご本人がインタビューで語っていた。

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『株式会社深夜放送』がニッポン放送本体に戻り、本格的深夜番組『オールナイトニッポン』の初代ラインナップに加わった頃には、それはもう糸居の持ち芸のようになり、かつ、アメリカやヨーロッパの放送局からヒントを得たさまざまなテクニックが加わり、時代に翻弄されないオンリーワンなスタイルを確立したのであった。

糸居五郎の番組はジャズをスタートとしてはいるが、扱うジャンルは時代と共に自由に変遷している。オールナイトニッポンでは『リクエストは受け付けない』とまで言い、リスナーがまだ知らない新曲や、意外な選曲で毎回孤高な音楽世界を貫いた。

  そして、実はあの『糸居節』も、扱う音楽ジャンル、すなわち時代とともに変化をしていたのだが、誰もが、そして、糸居五郎を知るあらゆる世代が『同じ糸居五郎』の声真似、喋り真似をしていた。
  あの、頭出しをしながらの上の空みたいな喋り方も、実は、複数台のターンテーブルを擁するようになってからは行われなくなっていたのだ。むしろ、戦前来の『東京弁』(江戸弁ではない)による、テンポと勢いのある、キレのいい話っぷりだったのだ。本人はどんどん進化・変化していたのに、リスナーの記憶の中では糸居五郎は、なんだかブツ切りで喋るアナウンサーらしくない人として定着しているのだ。

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