絵葉書はどこに文字を綴るのか分からない

小学生の頃、修学旅行先で絵葉書を買って手紙を書いて現地から家に送ったことがある。
その時は一番余白が多い、猿やら龍やらがかかれたものを買って余白いっぱいに、日光東照宮が凄かったことやクラスメイトが木刀を買ったことやレクリエーションでの遊びなどを綴った。
その時一番に考えていたのは
「ふつうの葉書にめいっぱい書きたい」
ということだった。

帰宅し、届いた葉書に母は大変喜んだ。しかし、綴った内容は、こと細やかにその日の夕食時に話すこととなった。「話さなきゃ全部伝わらないのになんで葉書送ったんだろう」と謎に思ったが、謎は謎のままで、寝たら忘れた。

文字を書くのが好きだと気づいた時から、手紙はよく書いた。決まって、便箋に書いて封筒にいれていた。文通をしていたこともあれば、お礼の手紙だったり、時にはラブレターもあった。どれもこれも、行間は開けずに書きたい事を書きたいだけ書いた。
手紙を出すと大抵は返事が来る。母は季節の花が端のほうに書いてある、便箋と封筒がお揃いのものだった。兄は白地に薄いブルーの線が引いてあるだけの便箋と茶封筒。彼女はルーズリーフを折りたたんで返信をくれた。

しかし、祖母がたった一度くれた返信は、絵葉書で送られてきた。祖母は手が震え文字が書けないため、返信が来たときは驚いた。
その絵葉書は、水彩絵具で藤の花の絵が大きく描かれたもので、紫の濃淡が優しい印象だったのを覚えている。ボールペンで書かれた祖母の文字は
「みなみちゃん、いつもお手紙ありがとう。会えるの楽しみです。」
のみだった。
しかしそこには、藤の花の絵を私に見せたくてこの絵葉書を選び、このメッセージと住所名前を書き、切手を貼り、ポストまで歩く祖母の姿が見えた。
私はこれほどまでに、【手紙】の奥深さを感じたのは初めてだった。私が今まで書いていたのは殆どが現状報告だったが、祖母から送られてきたのは優しさだった。
藤の花の絵、祖母の字、記念切手。
この絵葉書は私の宝物となり、今でも写真たてに入れて飾ってある。

絵葉書は文字を綴り伝えるのではない。
あの人に似合うだろうな。これが素晴らしかったな。本当は実物を生でみて欲しいな。この絵が1番近いかな。この美しさを共有したいな。元気になって欲しいな。笑顔になってほしいな。
そんなことを考えて、選び、送る。これが文字以上に想いを表しているのだ。

私は、それから絵葉書も好きになった。
まだ長々と文字を並べてしまうが、いつか祖母のように大きな絵と少ない言葉で相手を元気付けれる手紙を、大切な人に送りたいと思う。