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作品に刺されるって、つまり落雷に火傷することだ

作品に刺されるってよくいうじゃん、この表現かなり好きだ。

刺された作品は、忘れないし自分の人生の糧になるなあ。そう思ったときに思い出すのが、りゅうちぇるが恋愛相談に回答してたこの言葉だ。

「好きだから忘れられないんだ、と思ってしまっているかもしれないけど、あなたを深く傷つけた人だからあなたの心から離れないのです」
(引用:りゅうちぇる、恋愛・人生相談に回答 ファンから感謝の声「救われた」 - モデルプレス )

これに基づくと、忘れない作品って自分を傷つけたのかもしれない。もしかして作品って武器なのかもしれない。作品から私たちは何かしら傷を負って、一生残る傷になるかもしれないし、意外とあっさり治って傷つけられたことすら忘れてしまうのかも。
少なからず、私たちはコンテンツに「刺される」のだ。

先日、友人と話してて、
「歌が刺さるときって、自分は傷を負ってるわけで、深く傷つけられた相手の事は忘れもしないし執着するし、その傷が鍼とか灸とか、病を治すものであるだけで、傷には変わりないよね」
みたいな話をしたんだけど、後からこの例え方じゃねえわ、鍼とか灸ではねえな…と思ったんですよ。
ちゃんと整理しようと思った。

作品が自分に刺さるって、どーゆーこっちゃねん。
そもそも刺さるって何?

私は、「これは自分のためのセリフ(歌)だ」と感じた時、コンテンツに刺されたとおもう。それってつまり、自分の心の一番よわいところを突かれた時なんだよね。
突かれるという表現に違和感があるな。なんでしょうね、曲や言葉に「痺れる」という言葉が正しいかもしれない。自分の中で、KEEPOUTが張りめぐらされた領域に稲妻を落とされる感じ。異物混入ではあるんだけど、そんな事故みたいな感じじゃない。まるで授かりもののような、恐ろしいような、ちょっと神々しさのある落雷みたいな。

それだ、落雷だ。
作品って、エネルギーの塊で、それが自分のよわいところに落ちた瞬間に火傷するんだ。その火傷がすぐに消える人や軽傷の人がいる一方で、一生消えない火傷になって人生のお供になる場合や、相性が悪くてただれてしまう場合(作品が“合わなかった”時)もあるんだ。

そうか、音楽や物語、人の言葉や出来事というエネルギーは、常に自分の心の領域に落雷として落ちていく。心の領域には落雷に強いとこや弱いところがあって、そしておそらく自分の弱いところに落ちてしまったエネルギーを、私たちは一生忘れず執着し、愛してしまうのかもしれない。そういえば、落雷とは天と地の結婚って考え方があった。ある意味、作品と受け取り手の愛の形なのだから、コンテンツを雷に例えるのはあながち間違ってないのかも。

人生はよく道に例えられるけど、道じゃないのかもしれない。なんか心象世界を作り上げることが人生なのかもしれないな~なんて考え始めたらまた楽しい想像ができそうだ。

これを考えるきっかけになった先日の友人との会話は、ある種、私にとっての落雷だったのかもしれない。この火傷、一生掲げて生きていきたい。

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