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歯磨きが大嫌いだった話

歯磨きというものが大嫌いであった。

 歯を磨く、それは本来、日々の繰り返し行動の一つであり、5分もかからず終わる単純作業だ。
 だがしかし、私は歯磨きが大嫌いであった。なぜなら、鏡で自分の顔を直視しなければならないから。誰が好き好んで5分間も自分の口元を仰視せねばならんのだ、そもそもAIに仕事が奪われる時代にいまだにブラシで歯を磨くなんて馬鹿げている、原始的だ!と屁理屈をこねていた。
 そんなこと言うと虫歯になるぞと言われ続けて20年弱、歯石に悩むことはあれど歯が痛いという感覚はついぞ経験したことがなかったし、四年に一度、オリンピックと同じ頻度で通う歯医者さんには「虫歯になりにくい、強い唾液を持ってる」と褒められた事で余裕をかましていた。

 一昨年春、学生恒例の一斉健康診断の時期がやってきた。新学期の沸き立つような高揚感に紛れ込む健康診断案内。贅肉をつまみ、しぶしぶ指定された会場へ向かうと友人とバッタリ出くわし、仲良く身体測定巡礼をした。
 心電図の魔窟、秘密の視力測定部屋、体重計の石畳など多くのダンジョンをおえて意気揚々と帰ろうとしたその時、友人が声を弾ませた。
「ねえ!あっちに希望者歯科検診ってあるよ!」
まるで遊園地に行くかのような明るい声に、私は帰路へ踏み出そうとした足を踏みとどめて答えた。
「いやあ、私はいいかな、唾液強いし。」
もごもご言いながら、今朝歯を磨いていない事だけは言うな、と強めに自分の脳の言語野に言い聞かせていた。
 そんな私の様子に気付いているのかいないのか、しとやか美人の友人は大和なでしこも腰をぬかす強引さを発揮し、あれよあれよという間に私はくすんだ部屋の一室でおじいちゃん歯科医と向き合っていた。
 脳内で口臭謝罪会見をひらきつつも、のんびりと言われた「口開けて~」というコマンドにノータイムで反応する。おじいちゃん先生、うんうん、そうね~と言いながら私の口を見る。そうね~って何がだ、朝食はほうれん草食べたのね食べかすが残ってるわね、のそうねなのか。頭を真っ白にして大口を開けていたら、先生は「はい、いいよ~」と私の口を閉じさせ診断書に何か書き込んでいた。
 まるで罪状を言い渡される被告人のような気持ちで体をこわばらせていると、「いやあ、きれいですね」といわれた。おそらくこの時、人生で初めて「きれいですね」と言われたんじゃないだろうか、違った、そういえば胃カメラで胃の内部を見てもらったときも本当にきれいだ、ツヤツヤですよ!とべた褒めされたのだった。

「かみ合わせも悪くないし」という声に現実に引き戻される。
「多分だけど、唾液が良く出る人なんだね、虫歯ができにくいんだと思う」とにこやかに言われて、ほっとして胸をなでおろす。
 そして先生は続けた。
「でも歯は磨こうね、食べかす残ってたよ。」
顔から火が出たため消火活動に全集中した私は、「歯磨きの仕方ってわかるかなあ?」という先生の声に何と答えたのか、もう覚えていない。

 少なくとも、この日以来私は毎日歯を磨くようになったという事だけは、確かに記憶にある。

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