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創作日記 平将門のこと

現在、「新・将門記~隼雄と橘の物語~」を連載中なので、それに関連することを書いておこうかな、と。

「将門の乱」というのは今から千年以上も昔の話ですから、資料がとても少ないようです。「将門記」だとか「俵藤太の伝説」みたいに、公式でないものの方が多いようです。
「将門記」が最も信頼される資料のようですが、これも欠損があって、将門と一族の諍いの原因などはっきりしない部分も多いのです。
ま、作家の想像の余地が沢山ある、といえばその通りなのですが。

将門が六尺五寸を超える大男だったとか、片方の目に瞳が二つあったとか、日本刀を作っただとか、戦いになると何人にもなって現れただとか、虚実入り乱れて伝承があるようです。
特に「俵藤太の伝説」になると化け物染みてきて、悪意があるとしか思えません。まぁ、俵藤太こと藤原秀郷を英雄とするためには必要な過程だったのでしょう。

日本刀については、この頃は直刀から蕨手刀(柄の付け根を反らせたものから柄自体を反らせたもの)へ、さらに毛抜形太刀→日本刀と発展していく過程です。
京から戻った将門が最新式の反りが強い日本刀を装備していて、戦で使用した印象が強かった、という可能性はあるかも知れません。
それと大男だったというのは、ありそうです。
遠くから弓を射かけている内は良いですが、戦場を移動したり、いざ突撃ともなれば、体が大きくて強そうな将軍の後に従いたくなるでしょう。その方が生き残れそうな感じがするからです。

不利そうに見えても、将門に従えば勝っちゃうんじゃないかと感じれば、その配下の軍隊は実力以上に強くなります。
古代ローマのカエサルの軍隊も、カエサルが指揮すると何倍も強くなったと言います。誰が指揮官かというのは白兵戦が当たり前の時代は、重要な要素です。指揮官は強そうな人であるほど良いというのは、兵からすれば一つの真実かと。

将門が戦いにおいておれほど強かったのは、作戦だけでなく、見るからに強そうな将門の存在が原因なのではないかと思うのです。

さて、その将門ですが、神田明神の主祭神であることは今ではよく知られています。
私が子供の頃に母に連れられてお詣りに出かけた折にも、そのように説明されました。
「明神様といったら将門様のこと」と聞いて、そうなんだと出かけたのですが、神社の説明には将門のことは一言も触れられておらず「?」となりました。

神田明神2019年2

当時は知らなかったのですが、明治維新の後は将門は朝敵と考えられたため、神田明神の祭神から外されたというか隠されたというか、そうした処遇が行われました。
その処遇が解かれて、表立って祭神に戻ったのが1984年・・・・・・
それで私の子供時分に表示が無かったことに説明が付きます。

朝敵が解かれるのには戦争が終わっても40年近く掛かったのか、というのは驚かされます。

写真は2019年の春にお詣りに出かけた時の写真です。
またいつかお詣りに行きたいものですネ。



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