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子供にあるのは無限の可能性ではなく無限の好奇心

これまた言い古されたフレーズだが、「子供の可能性は無限大」みたいなセリフに対して、ホントかなぁ、とよく疑問に思う。子供を見ていると、明らかに向き不向きがあって、確実に得意なこと、不得意なことが存在する。後天的な性格によるものもあるが、骨格とか柔軟性とか先天的な要因も多くあると思う。

ただ、本当に向いているかどうかを判断するのも一筋縄にはいかない。ピアノの練習とか初めのうちは嫌だなぁと思っていても、ある程度弾けるようになるととても楽しくなって、どんどんのめり込むような人もいる。だいたいどのような分野でも、スルメのように噛めば噛むほど面白くなる要素があって、それを最初の一口で判断するのは難しい。

勉強も、その最たる例と言えるだろう。そもそも知識なんて、ただ生きていくだけなら無くても困らない。または、困っていることにすら気付けない。知識を身に着けていくことは、今まで何も見えない真っ暗な部屋に少し明かりが灯るようなもので、初めて目で情報が入手できることに気付く。すると、あそこに何かが見える、あれは何だろう、といった疑問が初めて湧いてくる。知識を得ることで知らないことが分かってくる。知らないことを知ることで、さらに知らないことの輪郭が見えてくる。

じゃあ、最初にどうやって明かりを灯すのか。深海魚は別に目が見えなくても生活に困っていない。でももしあなたが知識を獲得してチョウチンアンコウになると、たくさんの魚を食べることができるようになる。最初の一歩をどう踏み出すか、それが問題だ。

ここで大切なのが好奇心だと気付く。子供は、なんでもかんでも興味を示す。無限に好奇心が湧いてきて、なんでも試す。危ないとか勿体ないとか、なんの忖度もなく、なんでもする。それこそが最大の武器であり、はじめの一歩の知識を獲得するための素質である。

でも小学生にもなれば、それなりの分別はつく。何が良いことで何が悪いことか、何をすれば親に怒られて、何をすれば親が喜ぶか、何でも分かっている。好奇心に突き動かされるだけではダメだと分かっている。好奇心無き勉強は、ただの苦痛でしかない。分からない問題を解けるようになることは好奇心を満たさない。知らない漢字を覚えて、見たことのない都道府県の名前を言えるようになることは、何も満足をもたらさない。

好奇心が働くうちに、何か運命的な出会いがあればいいが、たいていの子供はあれもこれも手を出してみて一通り満足して、別にどれに人生を賭けたいわけでもない、という状態になる。そこから将来を夢想して、来るべき日のために勉強に励めというのは非常に難しい。

勉強してもらうには好奇心が必要だ。もうスレてマセて生意気な小学4年生だったとしても、一度童心に返って喜べるような体験を与えることが必要だ。だから、家にこもってネットばかりしていてはダメだ。いくら素敵な科学YouTubeを見せても、実体験には及ばない。テレビやゲームでは、すでに科学を超えた魔法の世界が次々に映し出されており、映像による好奇心には限界がある。

はやく外に出たい。。。

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