見出し画像

少数派の権利と多数派の義務

少数派というのは、楽しいものだと思う。孤独はさみしいけど、少数派は楽しい。多数派は楽しくない。いかに少数派の人生を歩んでいくか。

よく言われる言説の一つに、
「最初は面白い人たちが面白いことをはじめたけど、それを見て集まってきた人たちが面白くない真似をして廃れた」
みたいなのがあります。これも実は順序が逆で、少数派がやってることは面白そうに見えるけど、人が集まって多数派になってきたら面白くないように見える、ということなのかもしれないと思ったり思わなかったりします。

これを簡単に実現するのが「逆張り」ですが、最初に逆張りをしたときは一人で孤独で、寂しいです。そこに逆張り仲間が加わって少数派を形成できると楽しいですが、孤独なまま逆張りばかりしている人はとてもあわれに見えたりします。

なんで少数派は楽しくて、多数派は楽しくないのか

これは、人間が群れを成して身を守るタイプの動物だからだと思います。ふつう、サバンナで少数派は死にます。多数派になることが生き残るには必須です。でも多数派には社会的な負荷がかかります。交渉とか政治とかが発生します。みんなを守るための様々な義務が生まれます。

少数派は気楽です。気心知れた仲の人しかいないので安心です。もし、多数派が少数派を守ってくれるのであれば、少数派はいいとこどりです。死なないし、気楽で楽しい。これはずるいです。

でも、世の中ダイバーシティ&インクルージョンだし、弱者を守るのが強者のノブリスオブリージュです。そうやって、古のコミュニティは少数派でスタートして発展し、やがて多数派になって崩壊していく、というのを繰り返している気がします。

昔は、インターネットやってるだけで少数派だったから、ネット掲示板に書き込んでるだけで楽しい少数派仲間になれたけど、今やだれでもツイッターとかインスタとかやって多数派になったから、インターネットやってる人には書き込みマナーとか面倒な義務社会ばかり発生して、逆に飲み会しようとか結婚しようとかが少数派になってきてしまっている。

このスラムでも、1年半前にはごく少数派だった「言わないほうがいいことを言う部屋」が、今や最大多数派になりつつあり、様々な義務を負いつつある。それは、「言わないほうがいいことを言う部屋」がつまらない人に乗っ取られたのではなく、人が集まってきたから楽しくなくなってきた、という構造なのだと思った。

楽しくなくなってきたら、次に移り住む少数派を探したいところですが、面白そうに見えるところは、もうじき多数派になります。本当は、もっとじっくり逆張りから始めるべきなのかもしれません。

お前の悩みを、安く昇華するな。安易に楽しそうな少数派に参加することで紛らわしてはいけない。まず、自分の孤独と向き合って、渾身の逆張りを打って、爆散していこう。それが、美しい弔いの花火となる。

Q&A

Q. 人が集まってくるころに集まってくる人たち、全員じゃないけど「みんながやってるから」という価値観の人が多いと感じる。コンテンツがそこで大衆にこびたらオワコンだなって思う。

A. 「みんながやってるから」は価値観というよりも、価値観の放棄ですね。「カリスマ」の本の中に書かれていた「自己喪失の欲求」みたいなやつ。ぷろおごが言うところの、自分の絶望と向き合わずに安く救われる、ってやつ。コンテンツが大衆に媚びるのも、よくある変容の1つですが、少数派から多数派に移行するのをオワコンと思う人も確かに多いですね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?