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『わたしの叔父さん (Onkel / Uncle)』

 2019年の東京国際映画祭でグランプリを受賞した、デンマークの映画『わたしの叔父さん』が今、恵比寿などで上映中で、観に行ってきました。昨年の映画祭で観て、かなりユニークな映画だと思ったのですが、1回目に観たのと、2回目に観たのとではちょっと見方が変わりました。ちょっと私なりの感想を書いてみたいと思います。

1. 1970年頃までのデンマークのライフスタイル
 この映画の舞台は一貫して南ユトランドのトゥナー(Tønder)の酪農農家で、牛小屋と叔父さんと姪のクリスの住む家の中が主な舞台となっています。パンフレットのフラレ・ピーダソン監督の「昔ながらの農家の暮らしが完全に消滅してしまう前に、映画にしたいと思いました」という言葉の通り、古いライフスタイルが描かれています。
 家の中のインテリアといい、時間の使い方といい、私の義母とそっくりで懐かしくなりました。1970年前後に家庭を作った人は大なり小なりこんなインテリアだったと思います。今はデンマークのインテリアといえば、明るく光が沢山入り、白が基調ですが、この時代の流行りの色調はダークカラーでした。こげ茶色とモスグリーンがこの家のテーマカラーとなっていて、象徴的なのはキッチンの模様の入ったタイルです。リビングはセンターテーブルの上に「頭をかならずぶつけてしまう」デンマーク特有の低いランプが下がり、ソファの後ろの壁には素朴な大きな絵がかけられ、ドアの横の壁にはクロスステッチの細長いタペストリーがかかっています。決して広くはなく、すっきりともしてなく、高い家具もなく、ちっともおしゃれでない農家の庶民の暮らしを描いてます。マグカップはちぐはぐで、使う食器も最低限で済ませます。多くのデンマーク人はこの家を見たら、どこかに実家を見つけ出すのではないかと思います。(ちなみに普通の家はこの映画の家よりはこの時代ももう少しおしゃれです。)
 現在のデンマークは、北欧スタイルと言われるような素敵なコーディネイトや洗練された家具などのイメージが定着し、この伝統的なスタイルは、世代交代と共に、ほぼ消えつつありますが、今も、ユトランド半島で少し古めのサマーハウスを借りると、この映画の世界のようなノスタルジックなインテリアを味わうことができます。
 そんな家でのクリスと叔父の毎日の生活は、いたって単調です。毎日同じ物を食べ、いつもの朝ごはん、いつもの昼食、いつもの夕食を取ります。夕食はメインが少し変わるけれど、基本的には豚肉、そして絶対にジャガイモが添えられます。義母は朝ごはんのときにはクロスワードや数独がセットでしたが、クリスも必ず何かを解いています。夕食の後は、デンマーク式に皿洗いをしたら(お湯を溜めて、洗剤を泡立たせてブラシでこすり、すすがない)、家族のくつろぎのひと時となります。映画では、二人でいつものボードゲームをし、その後はソファに移ってテレビを見ます。(もう、義母の生活そのものです。)それは、お喋りを楽しみ、「ヒュゲ」の時間を過ごすというものではなく、淡々とした、クリスと叔父の単なる習慣的な時間の共有で、しかも二人はほとんど会話しません。その単調さと寡黙さが、彼らの家族としてのあり方です。
 また、たまに朝一番でパン屋さんに行って、同じように見えるいろいろなパンを買って、焼き立てを食べること、レストランに行くことが一大イベントであること、ヒュンメル(Hymmel)の着古した赤いTシャツ、テーブルにかけられたビニールのクロス、誕生日にテーブルに飾る国旗、教会でのコーラス・・・。こうした映画の中のひとつひとつが、まさにデンマークの伝統的なライフスタイル、デンマークの生活の原点だと言えます。

2.クリスの心のアンバランスさ
 さて、今回2回目の鑑賞で、大きく見方が変わったのがクリス像です。1回目に観たときには、私はクリスを一言で言うと「強い女性」と捉えました。叔父を助け、酪農を営むクリスは、『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラのタラよろしく、農場を守っています。厳しい作業の毎日にもかかわらず、彼女の意思の強さで農場を維持している、そういう強い女性という捉え方をしていました。
 でも今回、彼女の印象はがらりと変わりました。
 クリスは14歳のとき、彼女の父親が息子の後を追って自殺したことにより、とても変わった人間になってしまっており、そんな「変わっている」彼女の心の機微を追ったのが、この映画だと思いました。クリスは決して強いのではなく、多感なときに心に傷を受けてしまって立ち直っていない、むしろ弱さのある人間です。一見、身体の不自由な弱者の叔父、それに対し朝から晩まで献身的に世話を焼く実は愛情深いクリス、という図ですが、実は彼らの役割は反対で、クリスが叔父に精神的に完全に依存していると思いました。
確かに叔父は歩くことがぎこちなかったり、手先が動きづらかったりということはあるとはいえ、叔父は身体が不自由でも酪農の重労働の仕事をこなそうとしていますし、自らリハビリを予約して受けてみたり、クリスのデートや彼女がコペンハーゲンに行くチャンスを得たことを応援したりします。叔父の姿は「自立」ということを重んじているデンマーク人そのものの姿だと思いました。デンマークは高福祉で、高齢者の世話は家族がする必要はありません。ヘルパーを利用し、できるだけ自宅で自分のペースで過ごしたいと高齢者自らが考えますし、介護が必要となっても子どもの世話になるということは考えていません。たとえ、病気などをし、自立した生活が無理となっても、家族もコムーネ(市)も本人の承諾なしには施設に入れることはできません。叔父は常に働こうとし、自立した、典型的なデンマーク人高齢者の姿と思います。
一方、クリスは完全に叔父に精神的に依存し、自立しているとは言えません。典型的なデンマーク人の叔父に対し、クリスは全くデンマーク人的ではないように思います。現代デンマーク女性の対極にいるのがクリスなのではないでしょうか? 2-3日家を離れるだけで、「2週間分の食事」を準備し、母親以上に細かく叔父に注意を与え、しつこく何度も念押しします。付添いの要らないデンマーク病院の入院で、ずっと付添い、あげくに食べ慣れた朝食を持ち込みさえします。極めつけはデートに叔父を連れて行くあたりでしょうか? そして、どんなときもほとんど表情を変えないクリスが、叔父が倒れたときにはまるでお母さんが死んでしまいそうな小さな女の子のように号泣します。14歳で打ちのめされた自分を育ててくれた叔父を、27歳になっても別の人格とはみなすことができず、クリスは唯一の家族と思って、精神的に依存しています。スクラブルのゲームで「隠居」という文字を作ろうとしていた叔父に、クリスが一瞬間をおいてから「却下よ」と返すシーンは、クリスの中で叔父の命が永遠であってほしいという願望そのものです。
さて、そんなクリスの単純な日常にいくつかの思わぬ出来事があり、クリスは劇的に変化していきます、とはならないのが、この映画の面白さ、深さでしょう。だからこそ、観た私達の心に、その抑えられた映画のストーリーとクリスの押し込められた思いが後を引きます。結論がはっきりしている映画ではないので、フィクションとは知りつつ、どこかに叔父さんがいるような気がし、彼らはあれからどうなっているだろうか、と想像をしてしまいます。

ピーダセン監督は南ユトランド出身ですが、この映画の舞台となった南ユトランドのトゥナーはデンマークでかなり「田舎」の部類に入る場所です。監督のインタビューでも説明しているように、「田舎」だからこその、ここに生まれ育った者達の残る者、あるいは出て行く者の葛藤、そして失われつつある古い価値観と生活スタイルを描いた映画だといえます。クリスは極端な存在ではあるものの、誰の心にも、捨てたことや忘れてしまった人、あるいは捨てられなかったこと、見捨てられなかった人があり、大なり小なり、私達はこの映画に共感する部分を見出すことができ、胸がぎゅっとするように思います。でも人によっては、まどろっこしくて、こういう映画は苦手かもしれませんが・・・。
確かに好き嫌いは分かれる映画かもしれませんが、ユニークであることもまた確かです。冒頭9分間くらいセリフがないとか、110分の映画なのに、映画のパンフレットにセリフを全部掲載できてしまうとか、全体にモスグリーン調の心休まる落ち着く世界や、美しく平坦な風の吹く自然、俳優が主には4人しか出てこず、しかもそのうちの二人は素人だということや、音楽が全く使われてなく、登場人物たちのセリフもほぼ全部一言か2-3文節しかないとか・・・。そして、衝撃(?)のラスト・・・。
私も若かりし頃からお世話になった、恵比寿ガーデンシネマが2月いっぱいで一旦クローズされるということです。最後の上映映画のひとつとなったこちらの映画、ぜひご覧いただけたらと思います。

●わたしの叔父さん公式サイト●
agichour.co.jp/ojisan/

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