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D’Rica7という人① 日本人が外国で住むまで🎶Japan~Canada~London Life🎶

日本〜バックバッカー〜トロント〜ロンドンまで

最初に断っておきます。私の人生はかなり紆余曲折,でもこの上なく幸せで素晴らしい人たちとの出会いの連続でした!あと,音楽という魔物に翻弄されてる人生で今まで何とかここまでやってこれました🎶

追い追い私が関わった世界的に活躍しているミュージシャンやアーティストやプロドゥースしてきた作品やイベント,企画やツアー,そして今まで執筆してきた全国区で販売されている”老舗の音楽雑誌”や国内外のフリーペーパー,新聞などに掲載されてる記事や写真(私が撮影),動画などについて…世界情勢や旅情報など一応,出版社や展示会などで購入頂いてる写真なども特別に交えながらお伝えしていければいいなと思ってます⭐️

まずは私という人についての簡単な生い立ちから…なるべく短くまとめますがそれでも経験上,少し長くなるので何回かに分けて書きます!のでどうぞしばらくのお付き合いよろしくお願い致します。

ちなみに,講演会やオンラインレッスン,プライベートコンサルティングなども受け付けてますのでご興味ある方はまたご連絡くださいませ!

ニックネーム

私がこの名前をニックネームとしたのはもう20年以上前になる。自分でつけたにも関わらず正しい読み方はわからない。私が当時大好きだった90年代を風靡したD'AngeloというセクシーR&Bシンガーの名前をもじったのは確か。日本に住みながらはるか遠い存在の米国セクシーシンガーと少しでも何かを(勝手に)共有できたのが名前だった。外国人友達からRICAと呼ばれていた私は日本人であることを良いことにLをRに変えて「D'Angericaとした。すると「’」を使えないところでは必然とDangericaと表記され「名は体をあらわすね!」と言われた。

セクシーシンガーと同じように艶あるイメージが伝わったのかと喜んでいると実は「Danger-Rica(危険なリカ)」と読めることに気がついた。

「旬出鬼没」で「次になにをどこでいつするか分からない」ことで有名だった私の行動力と発言力に相まって「名は体を表す」と言われた。それを省略してD’Rica 、7は誕生日からのラッキーナンバーだ。都市伝説で「Dの伝承」が流行りだしてからは私の行動や滞在場所や仕事内容,仲間たちの状況から『D』一味だと思われている。真実は闇のなか...
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 (写真:私が好きだったD'Angeloというシンガー)

京都という特殊な土地柄が育てた異邦人

京都で生まれ育ち,3歳から始めたクラシックピアノを奏でながらもカトリックの女子校生活を過ごす中でゴスペルやネグロスピリチュアル,ジャズ,ソウル,R&Bに目覚めた青春時代。

たまたま高校の英語教授が『キング牧師』を崇拝していたエルビス・プレスリー信者で彼女からの勧めで『キング牧師』への手紙を書くコンクールに応募。その際にアメリカでの黒人差別に対する公民権運動と文化的背景を知り一気に興味が湧く。ピアノの先生か幼稚園の先生になり行く末は優雅に結婚して安定した生活を望んでいた私の親の思惑とは全く反対に私は黒人音楽や革命に目覚めてしまった。

京都は閉鎖的な小さな街でありながらも観光客が多く,英語を話す機会を得るのは簡単だった。バックパッカーが利用する宿と契約してボランティアツアーガイドの仕事をしばらく続けながら世界を知る。「井の中の蛙」として育った世間知らずの私は恥ずかしく思うことが多々あった。自分の歴史や文化について外国からきたお客さんに教えてもらった。

その中で日本縦断旅をするから2週間一緒について来ないかと言ってくれたデンマーク人がいた。彼は旅ジャーナリストで北海道に拠点を置く生粋のバックパッカーだった。これが私の長年に渡るバックパッカー人生の始まりとなった。

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      (写真:マーティン・ルーサー・キングJr牧師)

バックパッカー&ワーホリ

デンマーク人が北海道に置いてた荷物を全て引き上げ,私も北海道へ行きそこから軽自動車でバックパッカーっぽい旅を始めた。札幌からローカルな下道を通りつつ観光地で興味あるところだけ寄って基本は車泊。学生だった私はお金がなかったのでお風呂は毎日ではなく入れる時は川で水浴びか無料温泉に入りつつ何とか関西方面へと1週間で入った。当時はまだ道の駅もキャンピング施設も整ってなく全てが手探りだった。もちろんネットなんてなかったし誰もバックパッカーという言葉をまだ知られてない時代。

その後,猿岩石のヒッチハイク旅がテレビで報道されたり私が好きだった沢木耕太郎の小説「深夜特急」が大沢たかお主演のTVシリーズとなりバックパッカーという存在が知られるようになった。欧米やオーストラリア人などにしたら若いうちに旅をしてそれから就職するなどは当たり前に浸透した社会現象となっていた。

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日本縦断旅を終え,大学時代のパックツアー旅行を数回こなして勝手に海外への自信がついたと過信した私は大学卒業旅行にヨーロッパ3カ国パックパッカー旅を企画。賛同した女性一人と一緒に旅に出る。彼女はこれが初海外旅行。3週間ほどの旅は私が思ったようなものではなかったが慎重派の彼女のお陰で助かったことも多々あった。その彼女はパリの地下鉄でスリにあって小さな財布を取られるというハプニングもありながら無事帰国。日本の経済が悪化したこともあり究極な就職難で先輩達は派遣社員でも職にありつけたらありがたいと言っていた時代でもあり私は日本語教師の資格を取って海外就職を夢見るようになった。

大学卒業と共に日本語教師の資格も習得して就職活動という名の「一人バックパッカー旅」に出かけた。寝ずに貯めた貯金を切り崩しながらボランティア案内していた時に知り合った世界各国の「友達」を厚かましくも尋ねながら欧米中心に2年ほど超貧乏旅をした。アフリカ&アジア経由して日本に帰る時にはカナダでのワーキングホリデービザを習得していた。

本当は当時の私が大好きなバンドのメンバーが住んでいる『ロンドン』に移住したかったがその資金はなかった。合法的に働きながら英語を学び生活ができるカナダは比較的安全な街でたまたま私の実家近くにカナダ人家族が住んでいたこともあり幼い頃から身近に感じていたことも手伝ってトロントに住んだ。

でも実は人生で一度は住んでみたいと思っているのが『ニューヨーク』だった。「キング牧師」がジャズの帝王『マイルス・ディビス』など好きだったことからジャズに浸透していた私はジャズを学びにNYへ行きたかったがまだ住む勇気はなかった。同じ東海岸のトロントからだとスグに移動できるという勝手な思い込みから1年の計画で住み始めたが実際は冬の雪の多さや生活に必要な英語という壁は高かった。

借りた部屋がたまたまオペラシンガーでフェミニストのおばちゃんの地下室ということもあり音楽には困ることはなかった。私の部屋には暖炉,トイレバス付きでとにかく快適だった。おばちゃんが豚肉を宗教上食べないので絶対にキッチンで調理するなと言われた時は私は軽く考えていた。ハムとかベーコンぐらいならわからないだろう,とこっそり包丁やフライパンを使った時にはすごい剣幕で怒られた。宗教上食べちゃいけないからこういう共有使用するものも使ってはいけなかったらしい。宗教での決まりを日本ではそこまで厳しく考えない。仏教徒だからと言ってベジタリアンではない。どちらかといえば雑食。

そんなこんなで好きなものも家で食べることも出来ず,トロント滞在して半年で既にトロントに私は合わないかも(ワイルドな若い女1人生活を求めていた私にはおばちゃんとの落ち着きすぎた生活が合わなかっただけw)と大好きだったバンドマンである友達を追っかけてロンドン移住を考え始め,トロントでは音楽は学べないという勝手な自分の思い込みで1年後には『ロンドン』に移住した。

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(写真:初めてトロントで一人暮らしをした地下の部屋。庭へと続く大きな窓から冬には深く積もった雪を眺めていた。2階にはグランドピアノ,3階にはオペラシンガーのおばちゃんの部屋があった)

ロンドン時代

90年代後半から2000年始めに当時世界中で流行っていた『アシッドジャズ』ムーブメントを作り上げていた人たちがツアーで来日、まだ駆け出し中だった彼らと知り合ってからは、イギリスへ遊びに行く度に行動を共にした。ロンドンは大好きだった。ヨーロッパ至上主義で戦後教育を受けてきた母の影響もあり,ヨーロッパ滞在はクラシック音楽を勉強するという目的(いいわけ)も手伝ってとにかく自分の理にかなったものだと思っていた。
ジャズにファンクやソウルやヒップホップやハウス音楽を交えた『アシッドジャズ』ムーブメントはすごかった,世界中でどんなお店に入っても彼らが関わった楽曲がどこかでいつでも流れていた。アメリカでは『ネオ・ソウル』とも関連付けられヴィブラフォン奏者のロイ・エアーズはゴッドファーザーと呼ばれていた。(後日,この辺りの詳細を記載予定!)

ロンドン時代はカレッジに通いディグリーを習得しつつも音楽ビジネスを学ぶいいきっかけとなった。日本人の友達とつるむ時間はほぼなく現地ミュージシャンのマネージメント,スタジオで音楽製作や共同プロドゥース,イベントの手伝い,ツアー同行など一気に世界が変わった。私が練習してきたピアノなんてクソのようなもんでピアノの基礎も知らないプロミュージシャン達が耳コピで演奏するのを実際目の当たりにしてピアニストとして挫折。こういう才能のある人たちをもっと応援して多くの人に聞いてもらい幸せな気分になれる人が増えるべきだと思った。ヨーロッパを中心に旅を続けながらもアッという間に時間がすぎた。

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(写真:ネオソウルのゴッドファーザーで今でも親交のある神さま『ロイ・エアーズ』がロンドンの老舗クラブ「ジャズ・カフェ」などで演奏時には毎回呼ばれて会いに行っていた。そのうちロイとは一緒に仕事をするまでになるのだが故デニス・ディビス(dr)ともロンドンで知り合いNYに移住した当初は大変お世話になった)

ファッション系の仕事も頼まれてアートシーンなどにも足をツッコミながらあっという間に5年,6年が過ぎておりNYからロンドンツアーで来ていたアメリカ人ミュージシャン友達も増えた。

そろそろNYへの心の準備ができたかなと一度日本へ本帰国する。

〜②に続く〜

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